BARから出た哲学者
わが師匠、田辺秋守先生がCinemarcheで連載をはじめることに。
「映画と哲学」と題して、今月にも初回のコラムが掲載されるそうだ。
嬉しすぎる。テーマはもちろんのこと、自分も書いている映画サイトで連載になったことが、本当に嬉しい。
振り返れば最初の出会いは大学の授業だった。もう12年前のこと。映画を哲学的に語る方法に刺激を受け“入門”した。
授業後に毎回質問に来る僕のことを面倒に思っていたかもしれないが、粘りつづけた結果、田辺先生と一部の学生で「映画研究会」をつくり、教室を借りて映画を鑑賞する場を築くまでになった。
そういった環境が、自分の映画の観方を養っていったことは確かだが、“弟子”を名乗れるほどその教えを理解できたかは、正直わからない。
もともと僕は経済学科で、哲学を系統的に勉強した経験もなければ、哲学的な緻密な論証も性に合わない。
飛躍的な思考をどうにかしなきゃなと、文献をあさったこともあるが、どうも長続きしない。
そうこうするうちに、自分はなにより「書くこと」が好きであり、書く行為のなかで「考えること」が好きなのだと気づいた。
読むことと、書くことは切り離せないのは重々承知しているが、哲学書を読むのは時間がかかりすぎる。(語学もできない。)
今は「書くこと」を通して「考えたこと」の理解を深めるために必要な書物を教えてもらって「読むこと」をしている。自分の考察など、だいたいはすでに語られてきたものだ。
でも必要に迫られて読む“哲学書”だったら、飽きずに向き合うことができる。これが哲学の徒ではない者がとっている姿勢。
しかしこう述べていくと、いったい自分は何を教わってきたのだろうか、と自問せざるをえない。田辺先生とは文体はまったくといっていいほど違うし、論考ではなく「発想」と「修辞」を用いた表現のようなエッセイは、研究者だったら“破門”をくらう。
それでも僕は先生から「何かを教わり続けている」という意識を持ち続けて、ここ十数年、書き散らしてきた。
思うに師とは“わからない”からこそ絶えず自分の前に立ち続ける存在であり、その圧倒的な“他者性”がかえって重要なんじゃないか。
教わったことをすべて吸収できるような同質的な関係では、このさき学ぼうとする動力も、自分という存在も現れない。
ただ最初に「何かがある」という直感があり、あとはひたすら「未知なもの」を目指して進むだけ。
だから、書き続けられる。田辺先生から教わったとはっきり言えるのは、才能なんてものは考えずともよい、「継続こそ力である」という姿勢である。
あと嘘を言わない(言えない)先生なので、褒められることなどほとんどないが、学生時代にレポートでA+をくれたことが、たぶん今にいたるまでの小さな拠り所になっているのだと思う。
連載開始が楽しみだ。
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