「文体」と言われるものについて(その1)

201701/06
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 言葉を書き連ねることが縁となり、コメントやメールを送ってくださる方々との接触の機会が増え、卒業以来交流が途絶えてしまった高校の同級生と再会したり、新しいコミュニティに声をかけてもらったりと、感謝の気持ちを深く胸に刻む年の初めとなったことを大変うれしく思う。

 

彼らとの会話を通して、文章の良し悪しあるいは文体とはなにかといったことを考え始め、いつか言葉に落とし込めたらという年初の抱負も自ずと生まれた。地元では友人とのドライブ中に問答となり、30分で着く距離を3時間かけて走り回り議論を展開させたが、結局答えは出ないという一幕もあった。

 

 ドライブ中には話さなかったが、この話題に触れると小学校に入学したばかりの頃に「ことばの教室」に通っていたことを思い出す。“英才教育からすべては始まった”と美しいストーリーをつい語り出したくなるが、ネットで調べると文科省の「言語障害特別支援学級」とすぐに出てきて、これほど正確かつ無慈悲に現実を突きつける単語もない。そこは言葉の遅れや吃音を矯正する学校で、例えば僕は“ふみきり”が“ふにきり”になるなどうまく発音もできなかったようだ。

 

教室ではなにをしたかというと、よく落書きせんべいに使われるあの平たいせんべいを、円を描くように舐めて穴を開ける。舌が回らなければ「舌を回す」という強行手段に訴えるこの単純明快な授業により、僕は舌を高速で回転させ素早く穴開けをやってみせる術を身につけた。ご褒美はせんべいだった。大人になるとこのスキルが微妙な意味合いを含んでくるが、それはまた別の話で。

 

卒業試験は口頭試問。仲間たちに見守られながら(「がんばって!」や「大丈夫!」などといったかけ声はない。自分ふくめ基本しゃべれない。)「ことばの先生」と向き合う。単語や簡単な文章を読んだと記憶している。かなりつっかえて真っ赤になった頬の熱も覚えているが、最後に高速舌回転を披露すると、合格。せんべいをもらい、お別れをした。

 

このことを思い返すとき、言語活動をその人に備わった先天的で不変的な性質とみなすのは無理があるように感じられ、その上手い下手は「ソフト」によるものではなく「ハード」に起因するところが多いのではないか、と考えてみたい。

 

 先日パソコンを買い替えたことをここにも記したが、OSがXPであるのとwin10であるのとでは、当然、作業環境に違いが出てくる。また文章を書く際に使うアプリケーションをだいぶ前に「ワード」から「メモ帳」に切り替えたのだが、反応良くストレスなくタイピングできるせいか、出てくる言葉にも変化が現れた。そしてまさしくタイピングという動作そのものも、手書きとは異なる内容および構造を編み出す。僕はいつも、真っ白な「メモ帳」に思いついた言葉やセンテンスを散りばめ、その間を線でつないでいくという形でストーリーを見出しているが、それは映像の編集と同じように、素材を切ったり(Ctrl+X)、貼ったり(Ctrl+V)しながら進めている。これを原稿用紙上でやるとなると大変だ。真っ黒になりしわくちゃになった紙が目に浮かぶ。そのストレスから書くこと自体を遠ざけてしまうだろう。

 

文章の息、長さと呼ばれるものも、多分にソフト以外の要素が絡んでいるだろう。自分に2000字弱のエッセイが多く、長くても4000字程度に収まっているのは、個性や内面の問題ではなく、「休日の3、4時間で仕上げられる分量」だからである。もっと詳しく言うと、「休日の午前は寝て過ごしているから午後の数時間しか割り当てられず、また一応勤めているから次の休日は一週間後となりそこまでネタを引っ張ると忘れてしまう」環境が、自分の「文体」の一部を形成している。

 

 

 ちなみに大学生になるまでパソコンがない環境にあったので、先の理由から文章を書く気が起らなかった。高校の同級生も「森田は陸上のイメージしかなく、初動負荷トレーニングの本を貸してくれた」思い出を語ってくれた。「肉体改造の本」を友人に吹聴して歩くなんてどんなやつだよと思うが、その後パソコンを手に入れ「これなら書ける」という方法を発見し、“言葉を覚えたい人間”となった。

 

 本を読まない、作文が苦手、ときにそういった態度が「問題」として扱われるのを目にするが、目を向けるべきはその子自身ではなく「本を必要としない環境」あるいは「作文が苦と感じる環境」の方であり、彼・彼女が使いやすいハードと出会わない限り、子供をいくら逆さに振っても「言葉」は出ないと、自分の経験からはそう思う。陸上をしていたら陸上の本を読みたくなる、キーボードにつられてなにか言ってみたくなる、そういった自然なかたちで言葉と出会える環境をまず、「文体」の下に敷くことが必要だと。

 

ただ、全く同じ「ハード」を揃えても最終的に出てくる言葉は十人十色であることを、つまり「その人のその言葉」を生んだ環境を完全に再現してみせたとしても「その人」にはならない不思議を、次は考えなくてはならないだろう。しかし……あえなくここでタイムアップ! 果たして次週までこの疑問を抱えれいられるのか! まったく別の話題が始まっていたらすみません。これが僕の今の「文体」です。今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

初出:facebookの投稿(1/6)より

“「文体」と言われるものについて(その1)” への2件のフィードバック

  1. […] か書いてみることもとても好きなのに、その萌芽がまったく見受けられない。ここから前に書いたことのつづきとなるが(かろうじてテーマを覚えていた)、それは「国語ができなかった […]

  2. […] から文章を書くことが好きだったわけではなく、むしろ字をきれいに書くのが苦手で、作文は大嫌いだった。それが高校の終わりから大学へ入学する頃にかけて、パソコン(ワープロ) […]

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