精叫華幻樂団の紹介
2011年、夏。精叫華幻樂団の合宿にて。
2011年秋、その舞台『生狂乱舞♂/♀』を終えて。
そして2014年の秋、再びこの劇団が動き出した。
「また舞台をしよう。命を燃やそう。」
その一心で久しぶりにほとんどのメンバーが結集した。この身体を、息苦しい環境だけに使ってはいられない。仕事が辛い辛いと愚痴るだけではダメだ。機械的に飼いならされることに抗い、思いっきり声をあげたい。
「文字」が命を吹き込まれ、立ち上がることの感動。そして演出にのめりこむ感覚がよみがえってくる。この生き生きとした時間にずっと浸かっていたい。
劇団メンバーの一人である加藤志異さんは、各々がそれぞれの活動をしている間に絵本を出版し「絵本作家」となっていた。『生狂乱舞♂』では「夢は叶う!!」と舞台上で叫んでいたが、まさに現実と演劇を越境するがごとく自らの夢を果たしていた。
加藤さんは手中に収めた夢をもっともっと膨らませるべく、いまは“執筆活動”に専念したいという。そのため今回の舞台に関わることには少し消極的だった。でも役者の読み合わせが始まると、「ト書き読む。」と自ら進んで語り出した。周りにつられて自分を魅せたくなる、これも演劇の力なのだろう。
演劇は文字通り「ロールプレイ」の楽しさがあるが、現実社会では“役割をもって自分を魅せる場”が欠如していることが、逆に舞台に夢を見させる。日々の仕事で“役割”があるといっても、それはたいていの場合、人と距離を置き身を隠すための「防御の仮面」にすぎない。一方、演劇で大事なのは自己をさらけ出す勇気であり、「役割を認識し、役割を越えて交流する」ような在り方は、より善く生きたいと望む人間にとって一番の快感に違いない。
個々の役者から制作サイドまで、「演劇には誰にでも役割がある」とはよく言われたものだが、その仕組みは人の存在に安心感と強さを与える。自分が生きる生活空間ではあまり実感できない己の“存在理由”も、舞台空間ならはっきりしている。自覚できる役割があってこそ、意外にも引き出される魅力がある。それがいい。
そう、舞台空間には生物学的な「ヒト」ではなく“死”を意識した「人間」がいる。それは一度きりの人生を何度でも「繰り返そう」とする“生”の姿であり、そんな人間同士の交流は実存と実存がぶつかりあう大変なものだが、もういやだ!と思っても(トラブルを解決するのも演出家の役目である)、また味わいたいと戻ってきてしまう古巣の感覚がある。あたかも「これが人生だったか。よし、もう一度!」というように。
そして約三年のブランクを経て、またこの“古巣”に回帰してきた。学校を卒業し、多くが社会人として生活していた仲間たちが、それぞれの苦しみや希望を抱えて集ったことに、かつてない連帯を感じる。お金になればもちろんいいが、お金に還元できない「生の余白」を共有できる仲間がいることに感謝したい。
※精叫華幻樂団、中心メンバーの紹介。(写真:瀬野玄愛 注:2011年当時のものです。ここにいるメンバー全員が出演するわけではありません。)
雪舟
喜屋武
シュール
中村
旦那
少女
智史
実験舞踏ムダイ
シカミミ
実に濃い顔ぶれだ。ぼくにとって「劇団」は「バンド」のような存在であり、それもサーカスのような祝祭的な空間に憧れる。ここ最近は“ソロ活動”でエッセイを書きつづけてきたが、“バンド”でなければ生み出せない人生のサウンドがある。おなじみボブ・ディランのたとえでいえば、ザ・バンドとの共演や、ローリング・サンダー・レビューに入り込んだような気分だ。この“ツアー”が自分をどこに導いてくれるのか、今から楽しみにしている。
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