引用日記まとめ(革命について)
引用日記のテーマ「革命」2011年5月2日
寺山修司はいわゆるマルクス主義でははい左派の気持ちを代弁するのに、しばしばカミュを引いていた。久しぶりに引用してみよう。『豚・一九六〇』より。「その日、私は幾人かの知人と腕を組んで大学の構内に立っていた…」
「私は終始一貫<彼等>が信じられなかった。大衆という概念にはまりこむと贋学生もロッカビリー学生もまったく画一化されてしまう。彼等は大声で叫びながら実は眠っているようであり、しかもこの眠りはかなり深いものに思われた。」
「私はこうした眠りの集団のなかにあって一際、旗だけがうらやましかった。旗だけが純粋に『社学同』であり『共産同』であるようにさえ思われたし、第一、列よりはるかに高みで風に吹かれていた。私は旗になりたい、と思いかねなかった。」
「かつてカミュが、『きょう母が死んだ。いやきのうだったかもしれない。たしかなことはわからない』とかき、彼女のために注ぐ涙が出ないことに驚きながら情婦をつれて港の海で海水浴をたのしむ、といった新しいパターンを示したとき、まったく両手をあげて共鳴した人たちが今日は見知らぬ樺美智子の死のために涙を注ぎ憤っている。おそらく私が(今日樺さんの葬式がある。いや、きのうだったかもしれない。どっちだってかまわない)とかいたら、人たちは私を責めるだろう。」
「私は革命主義者と圧政者との対立が歴史を作ってきたとはおもわない。むしろどちらかといえば革命主義者にひそかに対抗しつづけてきた第三存在を信じたい、という点ではカミュの提唱などに共鳴するものがある。」寺山修司『豚・一九六〇年』より
この点に関しては、もはや上から統べる旗はなくなったといえる。「社学同」でも「共産同」でもなく、「ただ目覚めた人間たち」の自発的でゆるやかな連帯にもとづく現代の新しいデモは、寺山の希望を少しは満たしてくれるだろう。書を捨てた若者たちは、各自、旗のように自由に町を泳いでいる。
続けて引用しよう。寺山修司は手紙を好む。早稲田大学時代には、その同窓であり今は脚本家の山田太一と書簡を交わしていた。それがとてもおもしろい。青春時代にマルキシズムと直面した若者たちの反応が素直に描かれている。山田さんは党員のAさんを好きになってしまった。そこから始まる物語。寺山修司『ひとりぼっちのあなたに』から。
「山田は手紙を僕に渡した。「知っているとおり『自由劇場』は左翼の劇団だ。党員も幾人かはいる。Aさんももしかしたら党員かも知れないんだ。そしてもっと大きなことは、Aさんに恋人がいて彼もまた左翼だということだ。」…僕たちはまさかそんなきっかけから「思想」に出逢うとは思っていなかった。」
「山田の恋の障害としてあらわれたマルキシズムに対して、はじめのうち僕は無関心だった。しかし彼にとっては一つの思想と対決することなしには、この恋の成就は不可能に近い。彼は湯河原から山の匂いのする手紙を呉れた。」
山田「『革命思想』と『現実社会の不正義』といったようなものに毎日毎日ゆすられているような気持ちでまたやせきた。ことわっておくがマルキシズムや共産党の前で悩んでいるのではない。ここで自分をごまかしたら文学もなにもない、と思っている。とにかく寂しい。マルキシズムの決定論にいきなり身をまかしているようなやつらは総じて元気だ。しかしていかにも安っぽい。あの安っぽさには僕は慣れないだろう。とにかくここのところ、ずい分本を真剣に読んだ。…そして一種の確信めいたものを掴んだつもりでも、Aさんの前に立つとおそらくだめなのだ。」
「僕は山田にAさんなんかよしてしまえ、という手紙を書いた。ルカーチやエレンブルグでなくとも読む本はたくさんあるのだ。『たくさん蒔いた種子からのほうが一つの種子よりもいい花を咲かすだろう』とスタンダールを引用した。すぐ返事がきた。『わたしが未練がましい真似をするなどと思わないでください。わたしは仇を討つのだ』というシラーの詩句が書いてあった。」
ここで少し脱線すると、この手紙のやり取りが実際その通りに行われたかはわからない。寺山にとって「去りゆく一切は比喩にすぎない」。しかし書簡を交わして友情を育んでいたことは確かだろう。ぼくにはこれは羨ましく思える。
「僕はしだいに社会小説という放蕩の深みおちてゆく山田のまわりで、病気のためか醒めつづけていた。『手紙ありがとう。…しかしふいに僕はなにか途方もないところにいる君を感じることがある。君はメルロ・ポンティの言うように『立場の転倒』に気づいていないのではないだろうか。君はAさんが目をくらまされている、と言い、ひき出してやる、と言いながらいつのまにかその逆にひき込まれそうなのだ…。』」
寺山「僕はマルキシズムをいやだなどとは決して思わないが、そういう論理に安心して身をまかせている連中の自己欺瞞はやりきれない。しかしその論理を破壊すべくまたひとつの論理を採用し、もしそれに君がたやすく身をまかせているのだったら―そんなことはないだろうね。Aさんなんか、と僕は思う。」
以上、寺山修司と山田太一の若かりし頃の「思想」を見てきた。寺山の思想の型はその頃にはできていたらしく、彼の比類なき想像力が生みだすリベラルな思想は、「論理に安心して身をまかせている連中の自己欺瞞」を破壊し、「革命主義者にひそかに対抗しつづけてきた第三存在を信じ」ることを宣言する。
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