シカミミの絵日記2『悲しき熱帯』
絵日記2『悲しき熱帯』
ぼくの故郷である群馬県館林市は夏場の気温と合わせて知名度が上がる。名物の祭りがあるわけでもなく、有名な花火大会があるわけでもない。ただ暑い。その一点だけで町はぐいぐいと名を馳せていく。盛夏にはテレビのお天気コーナーで「館林」という字を見かけない日はない。
そこに毎年友情出演し「夏の極致」を賭けた戦いを演じるのはお隣の埼玉県熊谷市である。なかでも、2007年のタイトル獲得争いは歴史に残る名勝負として両市民のあいだで語り継がれている。
2007年8月15日、館林市の気温は40.2度を記録し、観測史上最高の値をはじき出した。40度の大台を突破し、市民は水を掛け合いながら今シーズンの不滅の記録を祝った。
さて翌日も暑い。しかし王者としての余裕を持った市民たちは、扇子で優雅に風を送りながら下々の戦いを眺めていた。
事態の異変に気づき始めたのは昼過ぎだった。12時、熊谷が39.2度を出しているとの報が入る。そのとき館林は38.4度だった。「落ち着こうじゃないか。40度の誇りを持ちなさい」と自分に言い聞かせたのはぼくだけでない。
13時、館林:熊谷=38.9度:39.6度。
14時、館林:熊谷=39.4度:39.9度。
文字通りデッドヒートの展開に、誰もが固唾をのんで温度計を見守った。そして14時42分。熊谷市は40.9度に達し、最高気温の日本記録を更新した。この日、館林市民の熱視線は地元を40.3度まで温めたが、タイトル獲得にはいたらなかった。2007年、猛暑日の基準である35度以上の日数は館林市が23日、熊谷市が21日でシーズン優勝こそ果たしたものの、この年の汗は涙の味がしたという。
以上、気象庁の「気象統計情報」と自分の記憶を重ね合わせてみた。どんな語り口であれ、記録と暑さだけは揺るぎなく、故郷の人々はスポーツ観戦のように毎年この夏の風物詩を楽しんでいる。
しかし、実際のスポーツはこんなものではない。中学生時代ぼくは野球部に所属し、炎天下のなか日々白球を追いかけていた。その当時、休憩時間以外の水飲みは禁止という驚くべきルールがあり、休憩に入ると皆こぞって水道の蛇口に食らいつき胃に水を流し込んでいた。散歩中の犬が同じく蛇口に口をあてがうので「犬お断り」の看板もたてた。蛇口はぼくらの聖地だった。
だが運悪く(畏れ知らずにも)聖地巡礼に失敗する仲間もいる。球拾いやスイングの練習などしているとすぐにタイムアップ。あ、と思ったときにはもう遅く、合戦に臨む兵士のごとく雄叫びを挙げてグラウンドに駆け出る仲間たち。つられてグラウンドに飛び出るとどうなるか、ぼくらは館林の大地でよく学んだ。
次の休憩時間がやっと訪れ、一瞬笑顔を見せた仲間が「あれ、」という感じでその場にたたずむ。みるみるうちに手が震え出す。「あ、あ、」と言いながら横になり、口をぱくぱくさせながら震えている。ぼくらは最初自分たちが目にしている事態が把握できず、とりあえず笑った。マグロみたいだなという大方の意見を制し、熱中症じゃないか、と誰かが言い、ぼくらは妙に納得した。
照りつける太陽のもと、“失われた野球部員”はその後なんども出現し(幸い死者は出なかった)、誰かがぴくぴくし始めると、「今日は危険日だな」と冷静に塩を舐める風習が生まれた。土の上でぴくぴくと痙攣する部員。それを合図に尻から塩を取り出しぺろぺろ舐める部員。――なんだか悲しい気分に襲われたぼくはいつの日か陸上部に転部していた。
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