シカミミの絵日記6『ぼくの駆け抜けた夕陽のトラック』

201306/21

 

絵日記6『ぼくの駆け抜けた夕陽のトラック』

 

 ときは中学。館林の猛烈な炎天下のなか、『巨人の星』を写したような特訓に耐えきれなくなったぼくは陸上部に転部した。きっかけは二つある。一つはミスをして「ごめんなさい!」と謝ったら監督に「すみませんだろう!!」と怒鳴り返されたこと。“同義語”だと捉えていたぼくには衝撃だった。しかも別に謙譲語への訂正でもない。エラーではなく言葉の形式に敏感に反応する監督には疑問を抱いた。それでは国語教師ではないか。(実は国語教師だったのだが。)もう一つはベースランニング(ホームベースから一塁、二塁、三塁と駆けまわり再びホームに戻るまでを競う)が群を抜いて速かったこと。ぼくはいつも力のかぎり疾走していた。みんなから足が速い、足が速いと言われつづけ、そのまま「ただ走る競技」に転向してしまった。監督からはよく考えたらどうだと諭されたが、「すみません」と言ってグランドを去った。

 

 陸上部はパラダイスだった。水はいつでも飲めるし、連帯責任はないし、なにより与えられたメニュー(ノルマ)を自分のペースでこなしていけばいいのが性に合った。今日は100m走が何本、腕立て伏せと腹筋が何回、だからこのように時間を割ってトレーニングしていこうと自分で決められた。犬のように号令をかけられる野球部とは大違いだ。もちろん主体的に練習するのだからさぼるやつもいる。でも多くは放っておいても自分の目標に向かって突き進んでいた。これが本来の部活の姿であろう。

 

 加えて、転部して良かったことがある。いきなり部長を任せられたのだ。ぼくが移ってきたとき、部員はぼくを入れて二名しかいなかった。その一人はぼくの一学年下だった。結果、部でいちばん上級生のぼくが「部長」となった。野球部ではレギュラーになれず、ぺーぺーだったぼくが、陸上部では部長クラスになる。卒業アルバムなど部の枠を一人で独占できた。人生の初期で「沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり」を教わった。

 

 しかし部長といえどもただの素人、最初は後輩にさえ追いつけなかった。顧問の先生から走り方を一から指導され、後輩と二人で、ひたすら走る日々を送っていた。速くなりたい一心で朝練をはじめ、後輩も付き合ってくれた。いくら集団嫌いとはいえ、一人で走るのは寂しい。(高校のころ、部員一人の柔道部の友人がいたが、彼は仕方なく転んでは起きる受け身の練習を繰り返していた。それに比べたら「二人」は実にありがたいことだ。※その友人から柔道部は辛うじて「二人」だったという連絡が届いた。やはりどんな稽古であったかが気になる。)

 

 よし、走ったなと思ったら大会で試してみたくなる。自信満々に出場した最初のレースは100mが13秒台だった。コンマ一秒を争う短距離界ではカメのように遅い。後輩にも負けた。部長としても立つ瀬がない。なんでだろう、どうしてだろう、あんなに練習したのにと反省するのもつかの間、顧問の一言により、その日から猛特訓がはじまった。顧問の先生は言った。「君は11秒台いけるから」と。

 

 11秒台なんて出せるわけがない。中学生だったら県の上位に入り込めるタイムだ。だいたい一年生から練習を積み重ねてやっとそういう次元で勝負ができるというのに、こちらは「ごめんなさい」発言で野球部を追われてきたシニア・スプリンターなのだ。残された数か月でそこまでたどり着けるのか。でも顧問の先生はなにか確信があるらしく、ぼくらは「やれる」と決意を固めた。

 

 さすがに部員二人では牧歌的な雰囲気となり向上心に良くないと判断したのか、わが陸上部は他の中学校へ合同練習しに行くこととなる。そこの部員はたくさんいて、見たこともない器具やハイエンドなシューズを使っていた。こちらは砂と走る人間がいるだけだ。この落差には驚いた。同じ市の中学なのになぜこんなに備品が違うのか!と憤るも「二人の部活」に予算が回ってくるはずもない。

 

 他校に潜り込んだ当初は「誰だ?」といった感じでじろじろ見られていたが、これは走る競技の素晴らしいところで、一緒に走っているだけで同胞感が芽生え、すぐに打ち解けることができた。そこには野球部と違って「レギュラー争い」などなく、各々が自己ベストを目指す姿があるのみ。それぞれが自分の世界で戦いながらも、その孤独な苦しみを分かち合う「乾いた連帯感」が好きだった。

 

 やがてこの輪は市内の陸上部全体に広まっていく。土日は中学の陸上部員が一堂に会する「大合同練習会」が開かれるようになった。ぼくはそこで多くの仲間をつくり、ここぞとばかりに大がかりな練習に取り組んだが、おそらく、無条件に人と人とが繋がり合い、走る楽しみ(生きる楽しみ)を共有できたのは、あの時期が最初で最後だったのだろう。生命が大地を謳歌し、自由に戯れ、交流し合う日々。当然そのなかでは恋愛という物語も育まれる。

 

第6回絵日記2

 

 はずだった。この絵を眺めては、部活帰りに、または遠征途中に、こんなのだったら良かったのにと想像する。

 

 ぼくは走るしかなかった。頭のなかに流れるメロディはジブリの『耳をすませば』などではなく『ロッキーのテーマ』であり、家では一階と二階の階段を往復して汗を流した。とにかく動き回っていた。それ以外のときは陸上関係の本を読みあさりノートに書き写した。あのエネルギーはどこから来ていたのだろうか。ぼくはすべての情熱を顧問の言葉で燃やし、この両足に注いでいたのだ。

 

 徐々にスピードを感じられるようになったのは、三年生の春先だった。そのころには学校で開催される運動会では一位をとっていた。その流れは市の大会でも引き継がれ、また一位となった。(ぼくよりも足が速かったやつはたばこを吸った罰で謹慎中だった。おかげさまで優勝しちゃったよと言ったら肩にパンチを入れられた。そして彼は笑って称えてくれた。)

 

 つづく地区大会でも好成績を残し、ぼくは県大会へと進んだ。でもぼくの興味は勝ち抜くことではなく、あくまで先生との約束を果たすことにあった。あぶれ者を受け入れ、充実した学校生活に導いてくれた先生へのお礼。11秒台はまだ出ていない。小さな故障も積み重なり、そろそろ身体の限界も近づいていた。

 

 先生の運転するワゴンに後輩たちと乗り(春に新入生が入り陸上部は活気を呈していた)、県大会の会場である前橋に向かった。車内での会話は緊張のあまり覚えていなかったと大会後にぼくは振り返った。ただ、カーステレオから好きな曲を流してくれた響きが耳の奥にとどまっている。

 

 大会でもっとも緊張するのは、レース直前、スタート地点の横にあるトラックに召集されているときだ。みな自分のスタイルがあり、ある者はストレッチをし、ある者は飛び跳ねていた。ぼくも同様に体をほぐすも、人より強く祈っていたと思う。

 

 スターティングブロックに足をかける。ヨーイ、のあとは記憶から抜け落ちている。上半身を立たせずに、低い姿勢をできるかぎり維持するようにと伝えられていたが、おそらく無我夢中に走っていた。進め、進め、前へ進め。左右も見ずに腕を振る。ゴールは突然に訪れた。トラックサイドの表示板には「11.85」とあった。誰もいない。ぼくの記録だ。

 

 ゴール付近にいた先生と抱き合って喜んだ。なぜ先生がそこにいたのか今でもわからないが、あの瞬間こそ、額縁に収めておきたい光景だった。

 

 県大会三位という結果は、翌日ぼくが登校する前に知れわたり、職員室では「これが黄金の足ですね」などともてはやされた。それに対して顧問の先生が「いや、まだブロンズです」と返したことは印象に残っている。そう、11秒台に突入した今、もっともっと足に磨きをかけ、さらに速く流れる景色を見てみたい――。

 

 翌月、ぼくは肉離れを起こし、短距離走から退くこととなった。関東大会への出場権を得て、先生がホテルの予約も済ませた矢先の出来事だった。練習中、スタートした直後に左の太腿裏にピキッと激痛が走り、その場で転げ落ちた。すぐに介抱してくれたのも先生だった。応急処置をしながら「すぐに治る」と励ましてくれた。ぼくは頷いたものの、その「約束」だけはついに果たせなかった。

 

 今でも陸上競技場を眺めるたびに、“あの時代”の空気がよみがえってくる。熱く、輝かしく、挫折した一瞬のきらめきが。とくに夕陽に包まれた競技場を見ると胸に迫りくるなにかを感じる。それはノスタルジー以上の意味を持つものであり、ぼくが懸命に走っていたのは“夕陽のトラック”だったのだと気づかせる感慨である。その走路から逃れることはできなかったし、それでいい。ぼくは「夜」を迎えたあと新しい方向へ舵を切り、必然といえるような「今」を生きているのだから。

 

第6回絵日記1

 

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