ルーキーが去った夜/10代最多本塁打記録によせて
この日をずっと待っていたのかもしれない。
9月4日。神宮球場のレフトスタンドに、村上宗隆選手の放った白球が吸いこまれた夜。
この32号ホームランで、10代選手の最多本塁打記録は33年ぶりに更新された。
拳を突き上げダイヤモンドをまわる若き姿をみて、僕は目頭を熱くしたまま、じぶんの10代の思い出が鮮やかに消えてゆくのを感じていた。
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この国で野球少年を探すのは、そう難しいことではない。
彼らに共通の教科書には、チームでいることの喜びを分かちあい、おのれの限界を知るまでの過程が書きこまれているはずだ。
そんな少年たちにとって将来とは、ただ打球の行方であって、それを高く、遠くへ飛ばせる者には、多くの夢が託されていた。
そういったイメージは大人になっても簡単には捨てられないもので、もうじぶんは組織の「4番」や「エース」にはなれないと気づきながらも、寝るまえには“いつかホームランを打つ日”を思い浮かべてしまう。
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かつての野球少年で、すこし上の世代と飲み会でもすれば、王、長嶋ら往年の名選手がいまなお現役でいるかのように登場してくる。
僕のなかにも“現役”が長い選手はいて、たとえば「清原」という名前は、そのひとつだ。
「プロ野球=テレビ中継」という野球少年の例にもれず、僕も子どものころは巨人ファンだった。
当時、いかにも伸び盛りといった感じの松井にくらべて、巨人移籍後の清原は子どもの目にもどこか辛そうにみえた。
筋肉ばかり増やして、西武時代の柔らかさを失って、がむしゃらにホームランを求めていた清原。
僕らは子ども特有の残酷さでその姿を揶揄していたが、大人たちにはわかっていたと思う。
ホームランを打てなくなったのではなく、ホームランしか打てなかったのだと。
その哀しい1発1発は、いつも叶えられない夢をのせていた。今度こそは、つぎこそはと変わらぬ日々を生きる、大人たちの願いと一緒に。
僕の記憶に深く刻まれていたのも、七夕の日、1軍に復帰した清原が、代打でフェンスぎりぎりに放ったアーチである。
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村上選手の打球が夜空に放物線を描いたとき、観客は祈りがようやく通じたかのように一斉に声をあげた。
それでいい。自分たちの夢はおわり、新しい夢がはじまる。
かつて清原というルーキーが残していった31本。
それが乗り越えられたいま、元野球少年たちはもう“ホームラン”にこだわることはないと、別の打球を追いはじめる。
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