第35回『ルイ十四世の死』を鑑賞して
アテネ・フランセにて、アルベルト・セラ監督特集のうちの1本『ルイ十四世の死』を観た。太陽王に扮するのはかの名優、ジャン=ピエール・レオー。
物語はすべてタイトルに言い尽くされている。過不足もない。本当にただ、ルイ14世の死に際を淡々と映し出すだけだ。壮絶な最期やそれを取り巻く人間ドラマもない。
上映後に行われたセラ監督と諏訪敦彦監督とのトークによれば、本作は「死の陳腐さ」を臨床的に映すことである種の現代性を帯びさせたとのこと。そしてこれはジャン=ピエール・レオーでなければドラマチックになり、単なる歴史ものに堕していた可能性があるという。
確かに「ザ・カンヌ」と言える現代的な作風であり、表象を観ることそのものに快楽を見出せない人にとっては、マゾヒズム的な体験としか感じられないかもしれない。しかしこの体験は実は、人間を看取ることの極めて具体的で現実的な時間でもある。
つまり「看取る」ということについて、私たちが忘れていたその長さ、苦痛、困難、無力等の感情を、映像体験として教えてくれるような気がする。現代ものであれば「胃ろう」のワンシーンで事足りるが、食べられない人の口を開かせることに多大な労力を払ってきた過去を、またその終末の姿を、忘却の彼方に追いやってしまっていいわけではない。
仮に本作を作り手の意図とは別に「介護映画」と名付けるならば、どうでしょう、とても「現代的」ではないですか。「介護とは生易しいものではない」、そう感じている人々の総数は、シネフィルよりも多いのではありませんか?
そしてまた“要介護人”をかつて「若者の顔」であったジャン=ピエール・レオーが演じるというのも、本作の大事な要素だ。
セラ監督が見たジャン=ピエール・レオーは、ずっと若者を演じ続けてきた彼の過去から逃れ、現代の映画に居場所を見つけようともがいている様子だったという。現場では時おり“アントワーヌ・ドワネル”が不意に顔を覗かせ、彼自身混乱に陥ることがあったと。巨大なプレッシャーを背負って臨んでいたことがうかがえる。
一方で諏訪監督もジャン=ピエール・レオーを主役に『ライオンは今夜死ぬ』(2018年1月20日公開)を撮影しており、彼が本当の意味でまた映画の中に存在することができたのではないかと、マイクを取って振り返った。過去と向き合うのは容易ではなく、「ルイ14世」のおかげで自身の神話から逃れることができたが、諏訪監督の映画だと逃げ場がないでしょうとセラ監督も応える。
両現場に共通して見えたのは、気難しく強迫的で不安症なジャン=ピエール・レオーの姿だった。それは私たちがスクリーンで慣れ親しんできた「ジャン=ピエール・レオー」を想起させる。
ーー恋人はカメラだけである。
通訳者がこの言葉を選んだとき、なるほどと思わず膝を打った。彼を言い表すのにこれ以上の表現はない。カメラが複数台あると混乱するというエピソードは、面白くも本質的である。いつもカメラに対して演技をしていて他の俳優には無関心。「ドワネル」の無邪気さと抱える孤独は表裏一体なのだろう。
そのイメージを払拭するべく「死」を立て続けに演じていると受け取れるが、彼のその実存が「ルイ十四世」では余計なドラマ性を排するように働いたように、一概に否定されるべきではないと思った。ヌーヴェルヴァーグの身体性が現代の作品で現代的に息づくことだってある。「神話」はいつも違った形で繰り返し蘇るものだ。
▼映画『ライオンは今夜死ぬ』公式サイト
http://www.bitters.co.jp/lion/
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