八月 私の狂詩曲 No.2
携帯のアドレス帳は手当たり次第に交換した人の名前でいっぱいになり、中学生の私の自尊心をくすぐった。今となっては途切れた人間関係のリストに転じてしまい時折苦い思いをするが、部活動の顧問とメアド交換したのも違った意味でまずかった。
他の生徒と同様にいかにうまくさぼるかに骨を折っていた時分。事故、風邪、葬式、どんな理由をつけても、この姿がグラウンドに見えないとなるや、顧問から電話がかかってくるようになった。気持ちよく晴れた土曜日、例のごとく温い布団から顔を出し、執拗に鳴りつづける電話に出て風邪気味で行けないと顧問に伝えた。安心して寝入った数十分後、それは目覚まし時計のスヌーズ機能のように再び鳴り響く。「おはよう、そろそろ来なさい。」
事実、ものの数分もしないうちに私は陸上競技場で顔を歪めて走っていることになる。それは一時期住んでいた母方の祖父母の家が公園のすぐそばに位置していたからだった。その時母は手術のために入院生活を送っていた。私は自炊できない歳ではなかったが、父が単身赴任していたこともあり、念のため祖父母の家に預けられることになった。土で汚れた靴下や汗にまみれたランニングシャツをいつも祖母がきれいに洗ってくれたのを覚えている。季節は夕立のよく起こる暑い夏だった。
私はあまり星占いを信じないが、祖母とは同じ射手座の生まれで、一緒にお茶をする際には自然と会話が繋がり発展していった。お茶といっても辺りが静まった夜によく飲んだのは甘くしたインスタントコーヒーで、ミルクと砂糖をたくさん入れたコーヒーを祖母は好んだ。言葉の端々に九州から関東に一人で嫁いだことの大変さが滲み出て、コップを傾ける時の間を埋める。一般家庭が豊かさを享受するには程遠い時代に青春を生き、気づいたらこうして孫の面倒を見ている、そんな趣があった。私は、孤独が夜の勝手口の雰囲気に溶け込んで優しさに変わっていくのを幾度となく感じてきた。
嫁ぎ先、すなわち祖父の家は兄妹が多く、大皿に盛った料理を早く食べないとなくなってしまうと言われ、祖母は目を丸くした。また祖父は戦時中の代用食であった「すいとん」を食糧難の記憶として語る。食生活の違いをはじめとして、夫婦とはかたちではなく絶え間ない文化のすり合わせなのだと、この家の古びた柱時計は見てきたはずだ。
とはいうものの、訪れるたびに家電が新調されているのも祖父母の家というものである。孫の成長と合わせるかのようにテレビのサイズも大きくなっていく。一方では散財かもしれないが、老いに向かう二人の家が、まだ日に日に新しくなるのは実に喜ばしいことだ。片や私がしばらく世話になっていた頃は、二層式洗濯機があった。私の下着もユニフォームもそこに入れられシャボンの泡に包まれた。自分はただ、クーラーの効いた畳の部屋で寝ていればよかった。目覚めると日に焼けた肌にタオルケットがかかっていた。母が退院し自宅へと戻る日が来た時、祖母は玄関先に出て私の姿が見えなくなるまで手を振りつづけていた。
大学への進学を機に上京してからはなかなか実家に立ち寄ることはできなくなった。一度就職してからは滅多に会うこともなくなってしまった。この初夏、梅雨の晴れ間に、ふらりと帰郷してみた。駅前通りを歩き、公園を抜け、手にした携帯電話をためらいがちに見つめた。祖母の持つ「らくらくホン」にはひらがなで私の名前が入っている。長らく音沙汰なかったことを悔やみながらも、一思いにコールして近くに来たことを告げた。それからゆっくり歩みを進め、路地の角を曲がると、杖をついた祖母が門柱に立ち、大きく手を挙げていた。
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