短編小説2『引退試合』
主審の合図で本戦がはじまった。体重100kgを越える巨漢が身をぶつけて押し寄せてくる。こうやって力任せに相手をなぎ倒しトーナメントの決勝まで進んできたのだ。ノリヒコはコーナーまで後退しつつも四肢を柳のようにしならせて攻撃をさばく。向こうは一気にしとめようと勝負に出ている、それは明らかだった。体重差は約20kg、一見無謀なカードが成立するのも極真空手ならではのこと。死ぬか生きるか、核心はそれだけだ。
ノリヒコは大学進学を機に故郷の長野を捨てて親元を離れた。寒く、なにもない村だった。父は戦争帰りでノリヒコに対して無骨に振る舞う。黙々と仕事をしては無言で家に居座り、ノリヒコの行動に理由もなく目をつける。作ったプラモデルは勝手に捨てられ、ゴミ箱のなかで戦車も飛行機も粉々になって混ざっていた。子供でありながら泣くことの無力さを知った。泣いたら次の一発が飛んでくる。父は変えられない。自分が強くなるしかなかった。
コーナーからノリヒコは一歩も引かなかった。ナイフのような鋭い前蹴りを腹部に突き刺し、重戦車の前進を食い止める。そこから素早いワン・ツー・ローキックで動きを封じる。だがそれは大木を叩くに等しく、衝撃は分厚い肉に吸収されていく。いくら打っても微動だにしない。にらみ合いがつづき、ノリヒコは入門当時の自分を思った。
腕立て伏せが百回できる。それを自慢に極真会館の門を叩いた。大学近くの埼玉県の支部だった。初日でその誇りは打ち砕かれた。腕立て伏せ百回などみな準備体操のごとく軽々とこなしている。それから稽古だ。ノリヒコは向こう見ずに先輩に挑んだ。殴っても殴っても先輩は動じない。逆にどんどん自分の手足が腫れてくる。一撃で倒された。その日は全身打撲を負い、文字通り、はいつくばってアパートにたどり着いた。ノリヒコは悔しさをかみ締め、二度と床に手をつかないことを誓った。
三分間も半ばを過ぎ、両者一歩も譲らない展開がつづく。ノリヒコは師範が得意とした下段回し蹴りを多用し、相手の両足に内外から攻めかかる。巨漢はノリヒコの手を組み強引に防御し、間合いをつめて胸部に突きを打ち込む。それが二発、三発と連続して入っていく。このトーナメントで対戦者たちをマットに沈めてきた中段突きだ。息を止める重い拳。どちらかの一本勝ちを期待している観客からはこれで “落ちる”と歓声が上がる。……ノリヒコはその歓声をかき消して、横蹴りで巨漢を突き飛ばした。会場がどよめいた。
もう負けない、おれは強くなるためにここに来たんだ。グローブや防具なしの直接打撃など正気の沙汰ではない。でもおれは死んでもいいから強くなりたい。極真空手は、なにも捨てるものがない者が行きつくところ……。ノリヒコは身を削った特訓にとりかかる。一日90kmを走り、その後、ウェイトトレーニングと稽古を重ねる。何度も吐いた。しかし無理してでも大量の飯を食べた。そしてまた翌朝、タオルを首にかけて走り出す。春夏秋冬これを繰り返した。身長は170cm程だが、体重は80kg以上にもなった。もちろん筋肉の重みで。日々の尋常ではないランニングは“鉄の肺”をつくりあげた。
巨漢と大方の予想を裏切り、小さな男は本戦を立ちつづけ、試合は延長戦へともつれ込んだ。二分間が幕を開ける。相手は再びノリヒコに飛びかかり、執拗に右の突きを繰り出してくる。ノリヒコの左胸はきしんだ音を立てるも上段後ろ回し蹴りで巨漢の上体をそらせ、瞬時にワン・ツー・ロー、ワン・ツー・ローの連打で立ち向かっていく。反撃にはつづけざまに前蹴りを放ち、巨漢はコーナーに追いつめられた。会場からは拍手が沸き起こり、ノリヒコは回し蹴りのコンビネーションを披露、相手の足は棒になっていた。
ミツコがノリヒコを初めて見たときも、彼は大きな拍手を浴びていた。大学での演武会、ノリヒコは段々に重ねた氷の板を気合を入れて振り下ろした右腕で割り切った。ミツコはノリヒコの追っかけとなった。試合があれば短大の授業をさぼって駆けつけて、一言、二言声をかけた。ノリヒコはいつも曖昧にうなずくだけだった。空手以外、眼中にない。でもミツコは見つめていた。道場で、競技場で立ちつづけるノリヒコの姿を。勝ち負けにはこだわらなかった。倒れないノリヒコが、なによりも心に響いた。
二名の審判がノリヒコの旗を上げ、後の三名は引き分けと判断。再度の延長が決まり、ノリヒコは帯を締め直した。巨漢は肩で息をしており、開始の合図に鈍く動き出す。ノリヒコは足を狙いつつも、超人的なスタミナで突きの猛攻に転じる。もう一本の旗を得るために。しかし相手が大木であることには変わりなく、打てども打てども倒れない。体重差によって自らの身体にも相当な負荷がかかる。それでもノリヒコはばてることなく足を使い拳をひねり出す。巨木は立ち止まったまま、だしぬけに中段を突いてきた。一瞬、ノリヒコの息が止まった。血の気が引いている。だが表情には出さずに前蹴りで距離をとった。
ある日、過酷なトレーニングに体がついに悲鳴を上げた。帰宅後、突然に高熱を発し、手足が痙攣、意識も朦朧となった。床にミツコから渡された手紙が落ちていた。どうにか手元に引き寄せ、目で数字を追う。黒電話を抱えダイヤルを回した。三回ほどベルが鳴ったところで、受話器を置いた。なにも捨てるものなどない……。ミツコは十分後にあらわれた。救急車を呼び、ノリヒコを病院へ搬送した。過労と夏場の脱水症状で点滴を受けた。ノリヒコは、ミツコの勘によって一命をとりとめた。日々看病しているうちに自然と同棲になり、そのまま結婚まで導かれた。ノリヒコは卒業後いっとき大会からは遠ざかり、就職先で働きながら空手の練習に励んだ。徐々に仕事も慣れて落ち着いた頃、調整期間を設けて迎えたのがこの「復帰戦」だった。
コートの四隅の審判たちはまたもや「引き分け」の判定を下した。ブーイングの声が会場を満たす。体重差を加味すればノリヒコの勝利、すなわち優勝だ。ここまでタフに戦い抜いた猛者は近ごろいない。観客はその“極真魂”を称賛した。そのなかで主審は「三回目の延長戦」を宣言した。今度は驚きの声が広がった。本来、延長戦は二回までである。そこで引き分けの場合に「体重判定」がある。ノリヒコと巨漢はその判定に該当する。しかしまだ戦えと、決着のつくまでやれと、審判はいうのだ。これも“極真”だ。肝心な局面では、死ぬか生きるかの原点に立ち戻る。それはルールよりも大事なルーツだった。
ノリヒコは知っていた。自分の左側の肋骨が深く折れていることを。それも数本やられている。今は興奮しているが、やがて呼吸ができなくなるだろう。そしてもう一発あの体重を身に受けたら、骨は肺や心臓に刺さるだろう。
主審は早くコートに戻るよう命じる。ノリヒコは立ち上がった。中央に向かって足を運んでいく。覚悟し真っ直ぐ見据えた視線の先に、観客席で佇むミツコの姿があった。おなかをさすって眺めている。子供に、話しかけているんだ……。「ほら! パパ、あれがパパだよ。」「そうだ、そのとき、おれがそこにいればな……。」
ノリヒコは腰を落とした構えをとったあと、「はじめ」の合図が出されるほんの数秒前にそれを解き、対戦相手ではなく主審に歩み寄った。少しのやり取りを終え、ノリヒコは足を肩幅に開き、両腕で十文字を切って礼をした。主審は巨漢の勝利を高らかにアナウンスした。
棄権したノリヒコは一人ざわついた会場を立ち去っていく。ミツコが観客席から駆けつけてきた。ノリヒコは白いタオルをミツコに投げた。「戦いは、終わった。」たとえノリヒコに捨てるものはなくても、ノリヒコを必要としている者がいる。強くなりたかった。でも家族には勝てなかった。幸せはこの世でいちばん強い相手だ。ミツコは「本当に最後まで床に手をつかなかったね」と言い、ノリヒコに付き添い病院まで連れて行った。
手術から一ヵ月後、病院から出てきたのは、父と母に見守られ、白いタオルにくるまれたユウスケだった。
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