映画『ライオンは今夜死ぬ』レビュー&考察――来るべき子どもたちへ、ヌーヴェルヴァーグの回答――

201801/27

――神に与えられ、奪われ、そして返された。

 

死を演じる老俳優、ジャン=ピエール・レオ―が『ライオンは今夜死ぬ』の作中でつぶやく言葉だ。これは、かつて愛した恋人の幻影に向かって発するフレーズであるが、“ヌーヴェルヴァーグの申し子”として映画界を生きてきたジャンの来し方を想起させ、また本作を観た者の胸によぎる想いとも一致する。つまり、ジャンはこの諏訪敦彦監督の最新作で、映画のなかに再び自分の居場所を見つけ、観客は長く待ち望んだ彼のカムバックを目の当たりにする

 

それをよく理解する前に、スペイン出身のアルベルト・セラ監督が、ジャン=ピエール・レオーを主演に迎え発表した映画『ルイ14世の死』(2016)に触れておく必要があるだろう。この作品でジャンは病床に就くルイ14世の最期を演じており、諏訪作品で死を演じるより先に老体を画面にさらし、“永遠の若者”という神話に縛られた自己と格闘していた様子がうかがえる。実際、セラ監督が来日時に説明したところによると(2017.12.02 アテネ・フランセにて)、現場ではしばしば、過去と向き合うことによる重圧と不安で混乱することもあったという。

 

それが結果として、「太陽王」の異名を持ち絶大な権力を誇ったルイ14世から、過剰な意味をそぎ落とすことにつながり、老いて死にゆく一人の男をただ画面に映し出すことに成功した。ジャンもまた、イメージで膨れ上がった過去から脱却し、「死」を通して映画のなかに「存在」する糸口を見出したともいえる。そしてつづく『ライオンは今夜死ぬ』では、その「存在」の仕方を確固たるものに昇華させた

 

左:諏訪監督 右:アルベルト・セラ監督

 

 

さきほどから“神話”や“過去”や“イメージ”といった言葉を並べ立てているが、好んで昔のフランス映画を観る人でもなければ文脈を共有できないと思うので、簡単に補足を入れておきたい。ジャン=ピエール・レオ―が初めてスクリーンに登場したのは1950年代の終わり、自身もまだ子どもの頃だった。それは甘ったるい「子役」という範疇に属するものではなく、不安や怒り、いらだちを抱えたどこにでもいるような少年として映し出され、そのリアリズムは“映画の文法”という名の下で支えられてきた常識(=虚構)を覆すには十分だった。

 

折しも、同世代の若手監督たちが「素人を使う」「即興で演出する」「自然光で撮る」などを共通項に活動をはじめ、カメラを持って町へ出た若き映画人たちと、そこから生み出された瑞々しい作品の数々が「ヌーヴェル・ヴァーグ(新しい波)」と呼ばれるようになる。ジャン=ピエール・レオーはその映画史に刻まれたもっとも有名な顔の一つであり、若手俳優の代表格として時代の寵愛を受けた。そんな“恐るべき子ども”だった彼が今、死をつづけて演じているという驚き。彼をよく知らずともそのインパクトは想像することができよう。

 

今や“新しい波”もとうに落ち着いて、その手法は映画を撮るものならば“常識”として広く知られているものだが、撮影技術が進化した現代こそ、むしろヌーヴェルヴァーグ的な取り組みの活かしどころと言える。なにしろ、スマートフォン一つで明るい画も、きれいな音もとることができる時代だ。編集はアプリがあればいい。半世紀の時を経て、「子どもを映す」時代から「子どもが映す」時代へと移り変わり、そのことが奇しくもジャンを主役にして描かれた。これが『ライオンは今夜死ぬ』の見どころの一つだ。

 

本作を撮るにあたり、諏訪監督はワークショップに集まった“演技経験のない子どもたち”を起用した。彼らは自主制作映画をつくるため、どんな話にするか、どこで撮影するか、誰を主役にするかなどを口々に言い合っている。一方、ジャンは死に臨む老人役をうまく掴めずに悩んでいたが、他の役者のトラブルにより撮影休止となり、しばしの休息がおとずれる。彼の足は南仏に向かい、かつて愛した女性(ジュリエット)が住んでいた古い屋敷に踏み入れた。そこで、カメラを持った子どもたちとめぐり合うのである。

 

この出会いは二重の意味でジャンの人生および軌跡をなぞっている。見てきたように、誰でも映画が撮れるようになった現代(1)に、演技経験のない子どもたちが集まる(2)という試みは、ヌーヴェルヴァーグという時代(1´)と、ジャンの子ども時代(2´)を重ね合わすことができるからだ。物語上の死が過去のイメージとの対決を求めた『ルイ14世の死』と比較すれば、本作ではそれに形式上の仕掛けが組み合わさり、ジャン=ピエール・レオーが“自らの過去そのもの”と対峙するように要請する。

 

ゆえに、ジャンが何十年も前に亡くなったはずのジュリエットと古屋敷で“再会”するのも、決しておかしな話ではない。逆にその「二重の仕掛け」が彼を巧みに過去に誘ったという証左である。「物語で死を演じていた」から死を意識しジュリエットが立ち現れたというほど話は簡単ではなく、彼を取り巻く環境の一切が「ヌーヴェルヴァーグのあの頃」を再現するかたちで用意されていたからこそ、幻と語り合う一連のシーンに説得力がもたらされたのだ。

 

陽光の降り注ぐコート・ダジュールの海や、無邪気な子どもたちの振る舞いとは裏腹に、ジャンはいまだかつてない難題に取り込んで(巻き込まれて)いたようにみえる。もはやこれは彼だけの物語ではない。ヌーヴェルヴァーグ全体の結末が暗示される出来事だ。レオーの出演交渉がまとまり喜ぶ子どもたちは「ところで……」と本人に疑問をぶつける。「おじさんは本当に俳優なの?」と。笑いを誘われるが、すなわちそういうことだ。ムーブメントの旗手たちが振り上げた“旗”が、どこに降ろされたのかを私たちはあまり知る(観る)機会がない。ジャンを世に出し育てた映画監督のフランソワ・トリュフォーにいたっては、52歳の若さで亡くなっている。反抗する若者がどのように老いてゆくのか。“親”を失ったジャンは、手探りであろうが自分の背中で後進に示すほかない。

 

どうすれば死を演じられよう。死に囚われていたジャンの心は、子どもたちとの交流によって徐々に解きほぐされていくが、ヒントはすでにジュリエットとの“対話”のなかにも隠されていたことを指摘したい。二人の間で交わされる台詞は、それこそヌーヴェルヴァーグ作品でよくあるようなアフォリズムに満ちているのだが、その一つに「カミュ」も登場してくる。

 

ノーベル文学賞作家にして実存哲学にも影響を及ぼしたフランス語圏の作家、アルベール・カミュは不条理な生における人間の自由や幸福を終生追求しつづけたが、エッセイ集『シーシュポスの神話』では、その「不条理な人間」の例として「俳優」を挙げている。俳優は、死を宿命づけられた人間のなかで、いくつもの「生」を経験することができる。より多く生き、不条理な生を謳歌してしまう俳優の姿に、カミュは人間の運命に対する「反抗」の契機を見てとったのだ。

 

ここに、先に見た「反抗」と「老い」のあいだに補助線が引かれ、役者であるところのジャンが、どのように死と向き合うべきかが浮かび上がってくる。ジャンは子どもたちに「今でも本当の俳優だよ」と言って聞かせるが、俳優である限りにおいてジャンは“不条理な人間=反抗的人間”の生きざまを体現する存在であり、またその姿勢を貫く限りにおいて死に対して“自由”な存在でありうるのだ。

 

「ジャンは俳優である」というシンプルな円環に思い至ったとき、「死はふたたび出会う場所」として受け止められ、「美しさと単純さが喜びとなる!」と言って子どもたちのつくった映画を心から褒め称えられるようになる。ジャンは、映画という記憶装置(=“過去そのもの”)で演じるうちに、本当の意味で過去を乗り越え、自由になった。諏訪監督が導いた手法は、“恐るべき子ども”から“来るべき子ども”たちへの珠玉のメッセージを送り出すことに結実した。

 

最後に「ライオンは今夜死ぬ」という題名について、「ライオンは眠っている(The Lion Sleeps Tonight)」と聞けば、あの曲だと思い当たる人も出てくるだろう。“In the jungle, the mighty jungle, The lion sleeps tonight.”のリフレインが耳に残るこの楽曲は、アメリカのポップ・グループ、トーケンズが1961年にカバーして大ヒットを記録したことで有名で、ディズニーのアニメ『ライオン・キング』でも使用された。フランスでは≪Le lion est mort ce soir≫のタイトルで歌われているが、これはそのまま本作の仏題になる。

 

ラストシーンで少年が見たあるイメージに、ヌーヴェルヴァーグの申し子を離れて歩き出した俳優ジャン=ピエール・レオーの「散種された命」を目撃し、次のような気持になって鑑賞を終えるのである。

 

――いつかライオンがいなくなったとしよう。でも心配ない。森の奥で、静かに眠っているだけだ。だってほら、もう子どもの心に棲みついているじゃないか。誰にも触れることはできないが、どこよりも広い世界で。

 

▼映画『ライオンは今夜死ぬ』公式サイト

http://www.bitters.co.jp/lion/