第2回別冊スクラップブック『ヘッドホン人生の第一歩』

201304/03

 

 がんばって働いて貯めたお金でヘッドホン人生を手に入れた。と、書いたら大げさすぎるだろうか。でもぼくにとって音楽は生きるエネルギーそのものであり、「音の質」に「人生の質」がかかっている気がしてならない。食べ物と同じで、できるだけおいしくて栄養のある音を求めたく、何より食べないと(聴かないと)力が出ないのだ。

 

 それに、第1回の概論で書いたようにぼくはポーダブルCDプレーヤーを持ち歩き、町でCDを手に入れた矢先にカフェなどで聴いている。その際、良い音で聴けば目の前の風景も輝いて見え始める。文字通り、毎日の歩みとともにある音楽は、やはり大きな意味を持つ「人生」と表現してみたい。

 

 春を迎えるにはまだ早いある日のこと。スピーカーやアンプで良い音を目指すには多額の資金投入が必要となる。「ならばヘッドホン!」ということで、前からどのヘッドホンが良いか菩提寺医師と相談していたところ、たまたま時間ができたので二人で新宿西口のヨドバシカメラに足を運んでみた。ここのヨドバシカメラ(西口本店)は大きなフロア一面にずらっとヘッドホンが並んでいる。AKG、ベイヤー、ゼンハイザーなどの試聴機が陳列されているなか、ぼくはおもに下調べで気に入っていたゼンハイザー「AMPERIOR」を試聴していた。どのヘッドホンも手持ちのMP3プレーヤーを繋げば簡単に聴くことができる。

 

 気づけば先生とも離れ離れになって、それぞれの「音探し」に熱中している。都会の真ん中にタダで楽しめるアミューズメントパークを発見したような気持ちだ。どのくらい興じていただろうか、やがてipodのイコライザーをいじりながら試聴していた先生が「これは良い」とあるヘッドホンの前にぼくを呼んだ。

 

v-moda1

 

 それはV-MODAというメーカーが創った「Crossfade M-80」だった。
http://v-moda.com/crossfade-m-80-shadow-on-ear/

 

 聞いたことないなと首をかしげたものの、百聞は一見にしかず。(いや、この場合“百見は一聞にしかず”か。)耳にあてて聴いてみると、それはすごい音がする。同じ曲で聴き比べていたのだが、まったく違う曲のように響いていた。引き締まった重低音の上にバンドが立ち現れ、一言でいうと、かっこいい。音楽に対してこのような言葉を抱いたのは初めてだった。曲の構成やギタープレイなどではなく、サウンド自体に厚み(奥行き)が出ると、同じ曲でもかっこよくなるのだ。

 

 こんな音を出すのだから、さぞ高いのだろうと思って値札をのぞくと18,500円。安い…といったら今の自分の財力からは語弊があるが、予想したほど高くはない。と、そのとき、先生が「これ買う」と購入カードを抜き取った。「お、おおお…!?」とまごついているうちにレジへ進む先生。ぼくもついていく。

 

 レジの店員さんが倉庫から品物を持ってきたとき、ぼくは恐る恐る尋ねてみた。「同じもの、まだありますか?」店員さんは「お調べします」と再び倉庫へ。あの瞬間ほど「何かを信じたい」と素直に願ったことはない。良品が目の前で買われた。これほど人の購買意欲を促すものはないだろう。なかったらどうしようと汗ばんできたころ、戻ってきた店員さんが一言。「もうありません。」

 

 V-MODAが入った袋を手に下げた先生とともにヨドバシカメラを後にする。なんともいえない。この感情を悔しさというのだろうか。やはり当初ねらっていたゼンハイザーを手に入れるべきか。焦って買ってもいいことはないと自分に言い聞かせながらも、先生の歩調に合わせて揺れるV-MODAが気になってしょうがない。先生の提案もあり、とりあえず喫茶店にでも入って落ち着いて考えることにした。

 

 訪れたのは新宿西口の地下道にある「珈琲店トップ」。ここのコーヒーといえば、植草甚一『J・J氏の男子専科』における「ウィンナ・コーヒーが飲みたくなったなあ」というエッセイに、こんな一文がある。

「ぼくは銀座のユーハイム、コロンバン、渋谷のトップあたりのコーヒーを飲んでいるけれど、友だちにはアート・コーヒーが好きなのがおおいねえ。けれどぼくには魅力のない味だ。」

 植草甚一が好んで飲んでいたというトップのコーヒー。ぼくもスクラップブックの先達に思いを馳せながらおいしく味わい、一休みに最適な時間を過ごす。しかし、それに満足して忘れてはならないのはヘッドホン問題だ。先生はV-MODAの包装を解いて、さっそく現物を見せてくれた。ヘッドホンが収められたケースがまた素晴らしい。

 

v-modaケース1

v-modaケース2

 

 どんどん欲しくなってくる。そしてもちろん、改めて音を聴いてみた。(ここでもポータブルCDプレーヤーが活躍。)またたく間に目の前にバンドが現れ、ぼくの「知覚の扉」が開かれる。こんな音を毎日体験していれば人生の質がアップする、そう確信した。

 

 買うと決めたら早く手に入れたい。先生と一緒に今度は新宿西口のビッグカメラに向かった。わき目もふらずオーディオコーナーに移動し、V-MODAを探し回る。なかなか見当たらないと思ったら、ここではガラスケースのなかに展示され、いかにも高級品といった感じに置かれている。でも求めやすい価格なのだから、と思って値札を見てみると…。

 

v-moda箱

 

 「25,800円」と書かれている。違う型かと思って目を凝らして確認してみた。しかしどう見ても、いま先生がぶら下げている「18,500円」のV-MODAと同じである。そうか、先生は“買い”のものを運よく見つけたのか。この値段で購入したらご飯が食べられなくなる。ぼくの夢は遠のいた。

 

 と、またそのとき、先生が近くの店員さんに声をかけた。「これ、さっきヨドバシカメラで18,500円で買ったものなのですが、安くなりますか?」あのよく見かける“他店より1円でも高い場合はご相談ください”のスローガンに忠実にのっとり指摘してみたのだ。だが1円どころではない差額である。ぼくは最初からあきらめていた。店員さんは少しお待ちくださいと、何かを調べにいった。

 

 ぼくはガラスケースを挟んで夢と対峙していた。一日でこんなにも願いをかけることになろうとは。そもそも今日は試聴するだけだったはず。日を改めたらこの熱も下がっているのではないか。もう一度考え直そうとしているところに店員さんが戻ってきて、小声で言った。「18,500円に100円を引いた価格で、さらにポイントをつけます。」

 

 二人とも同じヘッドホンを手にしてビッグカメラを出た。ぼくは「これぞ商売魂だ!」とものすごく感動していた。他店の価格に合わせるため7300円を値引きし、さらに他店“より”安くするために100円をまけた。もはや意地としかいえない。それも惚れ惚れするような意地だ。ぼくらはその足で新宿のdisk unionに立ち寄り、新しいヘッドホンで聴くべきアルバムをあさっていた。

 

 この日は「偶然や出会いに満ちあふれた散歩」というものを象徴する日となった。散歩で手に入れたものには関係性が詰まっている。このヘッドホンには先生や店員さんとの面白くも優しい思い出が刻まれており、それはこれから音楽を聴くたびに一緒に流れてくるだろう。同じ型のヘッドホンはきっとどこにでも売られている。それでも、ときどきヘッドホンの手入れをしてみては、世界に二つしか存在していないもののように眺めている。

 

 また先生と散歩する日があったら、ここに載せていきたい。きっと素敵な出来事に巡り会うはずだ。

 

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