引用日記まとめ12(偶然性その2)
引用日記のテーマ「偶然性」2010年9月1日
前回までに、偶然性を生きることは、人生をうまく生きることに他ならないことをつぶやいた。今回はそれをまとめてみる。(野内良三『偶然を生きる思想』より)。
「偶然―チャンス・アイデア―をキャッチし、上手に育てあげるには、どうもコツのようなものがあるようだ。それは次の三つにまとめられるだろう。」p.246
その偶然を育てるコツとはこれだ。
「①アバウトなプラン(不確定的目的性)。②我のない謙虚なスタンス(開かれた欲望)。③しなやかな想像力(関係性=必然性の発見)」p.246
「原理・原則(必然性)の名のもとに偶然的なものを拒否し、囲い込んでしまうことは、自分の生きている世界を制限することである。狭めてしまうことである。心を開き目を凝らして見れば、われわれの周りには多くの人との出会いがあるはずだ。多くの物との出会いがあるはずだ。」p.247
小林秀雄は『モオツァルト』のなかで「命の力には、外的偶然をやがて内的必然と観ずる能力が備わっているものだ」と述べている。先にあげた3つのコツは、その「命の力」を強めてくれる。
そんな偶然を発見する能力を「セレンディピティー」という。もはや偶然とは一種の技術なのだ。「運も実力のうち」とよく言われるが、その通り、偶然に対して正しく「準備」していた者に偶然=共時性は訪れる。
「目的(目標)を設定することは大切だが、ただ大きければ、ただ高ければよいというものではない。…『汝自身を知れ』という例の言葉を想い起さなければならない。ただし、今回は身のほどをわきまえるという本来の意味の上に、『自分自身の声を聞け』(自己認識)という後世の意味を重ねたい。」p.241
人は、ゼロから人生を築くことなどできない。この世に生まれ落ちた瞬間から、いや、お腹のなかに宿った時点で、すでにある関係性に包まれている。自分を取り巻く環境をみつめ、私に何が求められているか知ること。自分自身の声を聞けとは、まさに「風の歌を聴く」ようなものである。
「心の奥底の願望に耳を傾けること、内的必然性を知ること、つまり自己発見である。(…)野放図の自由(偶然)は行き当たりばったりにしかならず、乱流に流れる。目新しさ(冒険)ばかりを追うのは精神の幼さを示している。視野を絞ることによって対象が見えてくる。」p.241
目新しいものばかりに挑戦するのは、精神の偉大さを表しているのではなく、逆に、精神の幼さを示している。ここで、野球の打者を例に(野球はよく人生に喩えられる)、「良い挑戦者」の姿を思い描いてみよう。
ヒットを打つには(偶然の必然化)「たくさん振ること」ではなく「引きつけて打つ」ことが必要だ。球はどこに来るかわからない(=我のないスタンス)。しかしある程度見通しもつく(=アバウトなプラン)。それに自分の得意なコースもある(=欲望に満ちた待機)。無力と万能感の間でヒットは生まれる。
偶然を生きるコツは、我を張らず、しかし欲望に満ちた待機をしていることにある。うまく軌道にのれば、私が人生を選ぶというよりも、人生が私を導くという感じになる。それは運命とは少し違う。偶然と手を携え歩む人生には遊び(余白)がある。
大学時代は暇に満ちているから、小林秀雄のいう「外的偶然を内的必然と観ずる力」を養うには絶好の機会だ。しかし多くの学生は必然の因果を求め「効率的な勉強」→「早めのシューカツ」→「良い企業」の流れに乗ってしまう。偶然を排除するわけだ。しかし、「私は誰か?」の答えを早く知りたくて、自ら定めた必然の因果系列に入っても、うまくいかないことがある。そんな時、偶然的に訪れた出来事こそが、私は誰なのかを明かしてくれる場合がある。
人生という山がある。どこから登っても同じ頂上に辿りつく。偶然を技術的に生きることは、数ある山道のうちの一本を歩むに過ぎない。人生はどのようにでも生きられるだろう。その中で、偶然性ルートは安全ではないが比類のない景色を誇る道だろう。他でもない私のために用意されたこの景色、この人生。
引用日記、今週は「偶然性」について考えました。
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