引用日記まとめ11(偶然性について)
引用日記のテーマ「偶然性」2010年8月29日
「私」とは私の持つ関係性である。関係性は人やモノとの出会いによって築かれていく。そしてその出会いは偶然性にかかっている。今の私は必然的にこの私になったようだが、振り返れば、それまでには多くの偶然があったはずだ。あの時あの出会いがなかったら…という経験を繰り返し、「私」の存在は見えてくる。
前回のテーマは「存在」だったが、それを「関係性」と結びつけて考える場合、「偶然性」もまたつぶさに論じられなければならない。引用日記、テーマは「生命」→「死」→「存在」と変遷してきた。流れからして、今回のテーマは「偶然性」としたい。
偶然性を考察するために参照したい本は、野内良三『偶然を生きる思想』(NHKBOOKS)だ。この本は古今東西の哲学者たちの、偶然性に対する思想と生き様を描いている。しかも第六章「必然の愛を求めて」では、前回引用したブルトンの『ナジャ』を取りあげ偶然とは何かを論じている。まさに偶然。さっそく引用しよう。
「ブルトンの追求している美はすぐれて偶然的である。美は非日常性の刻印を押されている。この美の非日常的性格を前面に出しているのが、『ナジャ』の末尾にある、よく知られている美の定義だ。『美とは痙攣的なものだろう、さもなくば存在しないだろう。』」p.167
野内さんは「偶然に対してはさまざまな視点が可能であるが、ブルトンは偶然をもっぱら『出会いの偶然』として受け止める。」という。ナジャとの出会いはその典型で、ブルトンの想像力を強く刺激したに違いない。ブルトンはある『対談集』のなかで次のように述べる。
「人間の知力ではそれぞれ独立した因果系列にしか帰しようのない諸現象が(…)偶然に出逢い、一つのものになるほどに混ざり合うということが起こるのは、何に由来するのか、この融合の結果として生じる閃光がきわめて束の間のものであるにしても、非常に強烈だということは、何に由来するのか。」p.167
ある因果律ともう一つの因果律が出会うことの不思議。例えば僕が出席しようとしていた授業が休講で、仕方なく本屋で時間をつぶすとする。そこへ一度は本屋を出たものの、買い忘れた本を思い出し、書店に戻ってきた旧友とばったり出くわす。これは「束の間」だが「強烈」に感じ、意味を見出したくなる。
出会いは、どの程度まで偶然で、どこからが必然となりうるのか。さきの例でいえば、二人とも「久しぶりに会いたいなあ」と思っていてばったり出会ったならば、偶然では片づけられない何かがあると思わせる。この内的世界(=こころ)と外的世界(=出会い)の一致をユングは共時性と名づけ、重要視した。
ブルトンもまた、シュルレアリスムの立場から、すなわち人間の無意識に注目することから、偶然性の意味を考えた。「偶然とは、人間の無意識のなかに自分のために道を切り開く外的必然性の顕現形態であるだろう。」p.174
「偶然を通して欲望(無意識)が事物に投影されて客体化(実現)される。あるいは欲望(無意識)が対応する事物(出来事)を見つけ出す。客観的偶然は『物質的なものと心的なものとのあの神秘的な交流』を可能にするのである。」p.174
共時性を考えると、出会いは鼻息を荒くして探し出すというよりも、心静かにして待つこのほうが、私の関係性=存在=人生を豊かにしてくれそうだ。もちろんただ待つだけではない。ブルトンの言葉を借りれば「出会うためにさまよいたいという渇き」こそが、神秘的な交流を可能にする。(『狂気の愛』)
野内さんは共時性に敏感であろうとすること(=渇き)を「欲望に満ちた待機」という。共時的出会いの発見は、あくまで本人の意味づけ(=心的世界)によるものだから、ぼけっとしていたらただ複数の因果律があるね、で終わってしまう。その点で、偶然を引き寄せるのは私であると言ってもいい。
共時性はよく誤解されるが、それは私が念じたからある出会いが生じたなどというオカルト的なものではない。私が念じようが念じまいが、出来事はいたるところで生じている。順序は逆で、出会いの嵐のなかで、私が思っていたことだけが偶然として浮かび上がること、それが内と外の世界の一致を指す。
前に引用した、河合隼雄・茂木健一郎『こころと脳の対話』(潮出版社)のなかでも、共時性(=シンクロニシティ)の重要性について語られている。わかりやすく、おもしろいので再び引用する。
茂木「たとえば、一日中こうして動き回っていて、ありとあらゆるものを見ますよね。そのなかで、自分の無意識が、いますごく気に懸けていることに呼応するものが、たまたまあったときに、そこに注意がいくと。」p.106
河合「僕なんかは、いつもそこに注意しているわけですね。一般的な関係は平気で無視して。だから、いろんな人がおるなかで、「あっ、あの人」と思った人がいたら、わりと長くしゃべったりとか。それから本屋に行っても、なんかパッと見える本があるでしょう。その本はもう絶対買うとか。」p.106
共時性(=意味ある偶然性)と歩む人生。それはまるで啓示に従って生きることのようだ。理屈抜きに、つまり一般的な因果律を無視して「あっ、この人」と無意識に感じ、それが人生を導いていく最たる例は、恋愛である。ここまできてようやくブルトンがナジャと出会った意味・衝撃がわかってきた。
ブルトンはいう。
「一種の魔術的効力、そうです。私にとって、この出会いの思想が達しうるもっとも高い段階とその最高の実現の機会は、当然のことながら、愛のうちにあっただけに。それ以外の面には、愛とならびうる啓示はないと言ってもよかったのです。」p.169
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