引用日記まとめ7(中島らも)

201008/20

引用日記のテーマ「死」2010年8月20日

 

引用日記、今週のテーマは死ですが、今日は小休止。頭のマッサージに、中島らもさんを引用します。『中島らもの特選明るい悩み相談室その3ニッポンの未来編』(集英社文庫)より。

 

「ニューヨークまでの切符を買おうとしました。『チケット・トゥ・ニューヨーク』と言うと、切符が二枚出てきました。(…)『チケット・フォー・ニューヨーク』と言い直したところ、四枚出てきた。錯乱してしまって、日本語で『えーと、えーと…』と悩んでいたら、今度は八枚出てきました。」p.20

 

やはり面白い。このような感じで次に進んでいきます。

 

相談者「私はまだ十四歳だというのに中年が好きなんです。『おっちゃん』や『おじさん』ではなく、『おじさま』が。だから好きになる人は妻帯者ばかりです。(…)もし相思相愛になったら『不倫』しちゃうと思います。(…)多少興味もあるんです。いったいどうすればよいのでしょう」p.43

 

らも「『おじさん』の世界に所属している僕の立場から、自信をもって断言させていただきますが、あなたの思っているような『おじさま』はこの世にはいません。この世には『おっさん』というのは掃いて捨てるほどいますが、『おじさま』なる生き物は存在しないのです。」p.43

 

この後「おっさん」の特徴がおもしろおかしく列挙されるが、最後の締めがまたいい。

 

らも「仮に百歩譲って、あなたが憧れるようなそういう素敵な『おじさま』がいたとしましょう。仮にいたとしても、ちゃんとした『おじさま』は十四歳の女の子と『不倫』したりはしないはずです。」p.44

 

「おじさま」は『カリオストロの城』のルパンくらいしかいないだろう。アニメの世界にだけ存在する「おじさま」なる生き物。らもさんの言う通り、「おじさま」はお姫さまを抱きしめることをためらい、手を震わせていた。決して「おじさま」は少女には手を出さない。

 

次は、16歳少女からの相談。その前に、昨日引用した大峯顕・池田晶子『君自身に還れ』(本願寺出版社)からの一節をあげておく。

 

大峰「やっぱりあなたが書いている『14歳からの哲学』、その頃じゃないかな。十四歳という時期は、人生においてとても大切な時期なんですね。」p.57

 

池田「ロゴスが出現する時期です。」p.57

 

大峰「十四歳を通過したらまた閉じるんだね。十四歳くらいの折に、存在の裂け目ができ、それを感じる。無限の宇宙の中にある自分という感じがふっと湧く。」p.57

 

そのように「存在に裂け目」ができた少女から、らもさんのもとに相談が届けられた。疑問を抱く少女16歳より。

 

相談者「私はもう三年も前から悩んでいます。人間は最後には死ぬのに、どうしてみんな一生懸命生きるのですか。最後に何かごほうびをもらえるわけでもないのに…。どうして私たちは努力したり恋したりして苦しむのですか。(…)今のままだと何を始めようにもむなしくてできません。」p.76

 

らも「人間をはじめ生き物が死ぬのは、DNAの中に「成長―衰退―死」というプログラムが書き込まれているからです。それは種を存続させるためには、種がたくさんの個体数に分かれては死ぬ、というパターンが一番合理的だからです。」p.78

 

らも「『人間』がいつも新しく元気でいるためには、我々『個』の死と新しい『個』の出現が必要なのです。死ぬというのはそういうことで、つまり『小さな僕=細胞』は死んでも、『大きな僕=人間』は生きているわけで、そう考えると死ぬことは別にむなしくはありません。」p.78

 

それは確かだ。しかし種の保存と関係なく言い放ったこの言葉のほうが、少女の胸に響いたはずだ。

 

「個の細胞はちっぽけな存在ですが、その一生の中には必ず一度か二度『生きていてよかった』と思う瞬間があります。(…)だからとりあえず今日はご飯を食べて明日まで生きてみることが大事です」p.78

 

これは論理的な答えではない。詩的な言語である。しかし「存在の裂け目」を埋めるのは、そういう言葉のほうではないか。相談者も「種の保存」といった次元の答えでは腑に落ちないだろう。僕は最後につけ足された一文のほうが好きだ。特に「一度か二度」という表現が、大人の視線を感じさせて、いい。

 

人生の意味を「種の保存」で片づけることはできない。「システムの新陳代謝」と「個体の生死」の次元は、それぞれ別にあると考えたほうが有意義である。少女の問いはもっともで、やはり「私」にとっての死が重要になってくる。らもさんの言葉でいえば「小さな僕=細胞」が死ぬことが、大問題なのだ。

 

結局、今週のテーマである「死」が俎上に載っている。「人間は最後には死ぬのに、どうしてみんな一生懸命生きるのですか」と聞かれて、ドーキンスが言うような「利己的な遺伝子」で返答するのもいいだろう。しかし「じゃあなんで種は生き残らなきゃいけないの」と聞かれたら、真面目な人は答えに窮す。

 

結局、これは哲学者たちが考えてきた「存在への問い」に行きつく。引用日記、今回の最後は、「存在への問い」三連発で締めよう。

 

ライプニッツ:「なぜ無ではなく、何かが存在するのか」

ウィトゲンシュタイン:「神秘的なのは、世界がいかにあるかではなく、世界があるということである」

ハイデガー:「哲学するとは『なぜ一般に存在者が存在するのであって、むしろなにもないのではないのか』を問うことだ」

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