引用日記まとめ6(池田晶子part2)
引用日記のテーマ「死」2010年8月19日
昨日に引き続き、哲学者の池田晶子さんを引用。大峯顕・池田晶子『君自身に還れ』(本願寺出版社)より。住職さんとの対談本です。今ここに自分がいるという不思議の実感、それを言葉で考え続けた池田晶子さんは、非常に仏教に近いところにいた。死期迫る晩年の対談。
池田「宗教のお話を聞きに来る人が減ったということですが、やっぱり言葉が価値であることを忘れたということだと思うんですね。(…)人が本当に生きるか死ぬかのクライシスになったときに求めるのは、お金でもモノでもなくて、ほんとうの言葉でしょう。」『君自身に還れ』p.40
大峰「浄土真宗だけじゃなくて、キリスト教でもそうだと思うんだけど、すべて宗教的に救われるということは、言葉に救われるという言語経験のことでしょう。それ以外の目的は何もない。」p.48
池田「ぎりぎりのところで、私たちは言葉によらずに救われるということはあり得ないでしょう。私も以前、死刑囚と往復書簡をやったことがあって、私のものを読んで考え始めてしまって手紙が来たんです。やはりぎりぎりまで追い込まれると、真実はなんだろうと、本当の言葉を探すんです。」p.48
池田「彼の場合、最後になって、猛烈に本を読み始めたんです。二人か人を殺して死刑宣告されて、はたって気がついて、とんでもないことをしたんじゃないかと、(…)本当のことはなんだ本当のことはなんだって、水を求めるように言葉を求める。最後には、人間は言葉しかないんですよ」p.49
前に引用した寺山修司は「言葉を友人に持ちたいと思うことがある」と言った。それは「じぶんがたった一人だと言うことに気がついたとき」にである。自分の生死は自分でしか背負えない。その孤独の存在を支える、言葉という友。かの死刑囚、永山則夫も獄中で言葉を求め始め、『無知の涙』を流していた。
「最後には、人間は言葉しかない」と聞くと、「はじめに言葉ありき」という聖書の一文はいっそう魅力的に見える。これは人間と言葉との重要な関係性を言い表しているのではないか。言葉は生命を紡ぐもの。まさに本当の言葉は人間にとっての水である。
大学で言葉を得ている者からみて、水としての言葉は、もはや文学部にしかない。所属する経済学科には、金になる言葉はあるけど、それらは友人に持ちたいものではない。つまりぎりぎりまで追い込まれたときに救ってくれるような言葉ではない。日常言語=金と、詩的言語=水。大学は日常言語で溢れている。
「言葉」と「存在」について考えて行きづまる。これは答えを出すことが求められているのではなく、考え続けることが求められているのだろう。池田晶子さんは46歳で亡くなった。もう一度、『睥睨するヘーゲル』から彼女の声を引用して、池田晶子デーは終わりにする。
「ええ、哲学を甘く見ちゃいけませんよ。なぁんだって考えちゃうんだから。あなた、神のこと、考えたこと、ありますか。そう、『考える』と私は言ったのであって『信じる』と言ったのではない。(…)私は神を考えによって追いつめる。」池田晶子
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