引用日記まとめ4(河合隼雄)
引用日記のテーマ「死」2010年8月15日
今回引用する人物は心理学者の河合隼雄さんです。
今日は死といっても自殺という問題について考えてみる。河合隼雄『ユング心理学と仏教』(岩波現代文庫)より、引用。
「自殺は本当は自我殺し(egocide)が意図されているのだが、クライアントはそれに気づかず、自分自身の命を断とうとしている。そのことを明らかにするのが、治療者の役割である。」p.156
自殺の本当の意味は、suicideではなく、egocideであるという。一度いまある自我を殺して、より大きな自分へと成長しようとしているときに、その負の面だけにとらわれてしまい、自ら命を絶ってしまう。人間の成長過程には、一度は訪れる危機だ。
日本の、年間3万人以上の自殺者のなかには、そのegocideをsuicideへと結びつけてしまったひとが多くいるのだろう。「個性化の過程」が「死への階段」と化してしまった、ということだ。
「個性化の過程」とは、次の説明がわかりやすい。河合隼雄はそれを「個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」と表現し、それは人生の究極の目標であるとともに心理療法の最終的な目的であると言った。
個性化の過程では、ときに生と死が接近する。「だんだんと生きる力を回復された人が、数年後に以前のことを思い返して、『死にたい』という言葉でしか自分の『生きたい』気持ちを表現できなかった、と言われ、この一言で私は大いに教えられたのです。」前同、p.158
「自我殺し」の危機をどうとらえるかによって、その後の人生は大きく変わってくる。成長への契機として見ることができれば、高次の全体性へと自我を導くことができる。しかし鬱病時には、そんな見方は生理的にできない。だからこそ臨床心理士が求められる。
もちろん、精神科医も重要なポジションにいる。ただ、精神科医が薬で症状を抑えようとすることが多いのに対し、臨床心理士はことばで症状の象徴化を図ろうとする。個性化の過程は、クライエントと治療者の関係性のなかで生まれるものだ。自我殺しの意味を明らかにするのは、やはり臨床心理士だろう。
「『縁起を見る者は空を見る』とは龍樹の言葉であります。個々のものがそれだけでは存在できず、それらは自分以外の一切のものによりかかって存在しています。そして、それらすべてのものを通じて唯一不可分の「理」が遍在しています。つまり『事事無礙』と言えるのです。」前同、p.141。
自分というものは関係性の所産であるとして、こう河合は言う。「その考えに従って、ある人が自分の個別性を大切にしようとするならば、その人は『自立』などということを考える前に、他との関係の方に気を配ることになるでしょう」
「自分探し」をするよりも、「関係性探し」をする方が、自我の確立につながっていく。自分探しが”individuality”=「個人性」を追い求めるのに対し、関係性のなかで構築される「私」は”eachness”=「個別性」である。
個別性は、偶然性に身を委ねることによって、発見されやすくなる。逆に、すべて自分の力で何とかしようと努力するのは、個別性の芽を摘んでしまうことになる。自殺者に多いのは、後者のタイプではないだろうか。「私」に執着し過ぎると、自らを窮地に追い込んでしまう。求められるは、「私」の解体。
「ある人が自分の個別性を大切にしようとするならば、その人は『自立』などということを考える前に、他との関係の方に気を配ることになるでしょう。」河合隼雄
[…] 間学習院大学で臨床心理学を学んでいたときのエッセイである。また、臨床心理学がとらえる自殺については「引用日記まとめ4(河合隼雄)」にも少し書いてあるので、参照されたい。 […]