引用日記まとめ3(寺山修司、アルベール・カミュ)

201008/14

引用日記のテーマ「死」2010年08月14日

 

寺山修司『墓場まで何マイル?』、角川春樹事務所より

 

今日は寺山修司を引用しよう。岡本太郎と同様に、彼も全人間的に生きることを欲していた。しかし岡本太郎が生命の光の部分を見つめていたのに対し、寺山修司は生命の死の部分に引きずられていたように思える。今日のテーマは死。少し重苦しいが、寺山修司の筆にかかると死さえも軽やかになっていく。

 

四十代にして亡くなった寺山修司。その絶筆が載っている本、寺山修司『墓場まで何マイル?』(角川春樹事務所)から引用を始める。

 

「寿司屋の松さんは交通事故で死んだ。ホステスの万里さんは自殺で、父の八郎は戦病死だった。従弟の辰夫は刺されて死に、同人誌仲間の中畑さんは無名のまま、癌で死んだ。同級生のカメラマン沢田はヴェトナムで流れ弾丸にあたって死に、アパートの隣人の芳江さんは溺死した。p.60」

 

「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分。」p.60(墓場まで何マイル?より)

 

淡々と死を列挙していき、その最後に自分の死を位置づける。あたかも他人の死を取り扱うように。この死の列挙には、人は誰もが死んでいくという単なる事実を超えた、詩的な響きがある。寺山修司はその「詩的な響き」に自らの死を収めようと、一生を費やしてきたのではないだろうか。

 

この絶筆は、ウィリアム・サローヤンの引用で締められている。「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それだけが、男にとって宿命と名づらけれる。」

 

生の始まりとともに、死も起き上がる。墓はいわば死の始まりを示すものだが、彼にとって死はとっくの昔に始まっている。なんせ命をもらった死なのだから。生と死を同時に抱えて走った寺山修司の残したことばだけが、墓にとって代わられる権利がある。

 

 

この、暗さを見つめて生命の躍動をとらえる仕方は、アルベール・カミュにも共通している。カミュも結核によって生死の境目を断続的に歩まざるをえなかったが、そこに、ある種の希望を見い出していた。「生きることへの絶望なしには、生きることへの愛はない」 と。

 

寺山修司も、しょっちゅうカミュの文章を引用している。カミュが交通事故で死んだ年は、1960年。寺山の生存中に、カミュの生い立ちを知る機会があったかどうかわからないが、きっと同じ匂いを感じとっていたに違いない。

 

カミュとの思想の近さを、寺山が語っている文章を見つけた。

 

「かつてカミュが、『きょう母が死んだ。いやきのうだったかもしれない。たしかなことはわからない』とかき、彼女のために注ぐ涙が出ないことに驚きながら情婦をつれて港の海で海水浴をたのしむ、といった新しいパターンを示したとき、まったく両手をあげて共鳴した人たちが今日は見知らぬ樺美智子の死のために涙を注ぎ憤っている。

 

おそらく私が(今日樺さんの葬式がある。いや、きのうだったかもしれない。どっちだってかまわない)とかいたら、人たちは私を責めるだろう。」(前同、p.121)

 

「私は革命主義者と圧政者との対立が歴史を作ってきたとはおもわない。むしろどちらかといえば革命主義者にひそかに対抗しつづけてきた第三存在を信じたい、という点ではカミュの提唱などに共鳴するものがある。」(前同、p.121。豚・一九六〇年より)

 

次は、『ポケットに名言を』(角川文庫)から。名言集の冒頭にはこのような言葉が書かれている。

 

「言葉を友人に持ちたいと思うことがある。それは、旅路の途中でじぶんがたった一人だと言うことに気がついたときにである。たしかに言葉の肩をたたくことはできないし、言葉と握手することもできない。だが、言葉にも言いようのない、旧友のなつかしさがあるものである。」p.6

 

旅路を人生と考えれば、彼は終始、言葉を友人に生きていたといえる。

 

とりあえずここで、寺山修司デーの区切りをつけたい。あらゆる男は命をもらった死であるとする彼の人生観が、万人に当てはまるものかはわからない。だが、自分の宿命とは何かを考え、自分の生と死を己に固有なものとして引き受けることは、極めて倫理的であり、誰にでも必要な作業かと思われる。

 

「私の墓は、私のことばであれば、充分。」寺山修司

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