選挙によせて

202207/05
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政見放送をぼんやり眺めていると、「本来の~」という言葉を頻繁に耳にする。

それに続く言葉は、「豊かさ」であったり、「暮らし」であったり、そして「日本」であったり。

はたしてその“本来”のなかで、自分の態度や価値観が認められているのかどうか、不安になる。自分は候補者たちの思う「本来的な人間」ではないんじゃないか、と。

いったい、いつからの“本来”なのか。誰にとっての“本来”なのか。つまるところ、その人にとって都合がよく、気分をアゲてくれるある姿・状態を指すに過ぎないのでは……といった疑問が頭をもたげる。

「本来」から始まる一文はだいたい、“べき”という「当然」の助動詞を好む。それは場合によっては「命令」にもなりうる。個と全体を天秤にかければ、より後者に重きを置いた言葉といえるだろう。

どんなに輝かしい言葉を並べられても、「本来こうあるべきだ」という思想が見え隠れする以上、あまりノレない。いつか自分が、あるいは大事な人が、その本来が規定する社会から外れたときに、様々な困難が待ち受けるだろうと想像できるからだ。

考えすぎじゃないか、候補者たちはそこまで狙っていないとする見方もあるかもしれないが、だからこそ心配で。“本来性という隠語”の持つ暴力性に無自覚なまま、きらきらと手を振っている姿が……。

日本国憲法の第十三条には「すべて国民は、個人として尊重される。」とある。ここを拠り所に、自分は投票したい。

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