映画を観て町に出よう

202108/27
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世の中が複雑になったせいか、多様な解釈を誘う映画が増えてきたように思う。

そこでは観客も、提示されたイメージを切り貼りしみずからを納得させるという、物語の作り手となる。スクリーンから現実に目を向ければ、陰謀論の衣装をまとった数々の物語が夜ごと生まれている。

これは今にはじまった話ではない。謎の多い世界を理解するために人類は“物語”を作ってきた。それは最初「神話」として伝承され、ときに普遍的な「宗教」となり、近代からは「科学」と呼ばれるようになった。

それぞれの物語の是非はさておき、身の回りの出来事を意味づけることなしに生きるのは、なかなか難しい。人間はそこまで強くない。

そのなかで、比較的健康に生をまっとうするには、物語の型からその中身や展望を推察する“リテラシー”が求められる。この物語は危ない、自分も人も傷つけるとわかれば、はやめに引き返せる。

洞窟に壁画を描き始めるようになってから現在に至るまで、人間の想像力(思考の癖)はさほど変わっていないのではないか。喜劇や悲劇、そして古今東西たくさんの映画を観ていけば、物語のパターンはある程度整理できるはず。

逆に人々の感情をコントロールする側は間違いなく“シナリオ作法”を熟知しているので、受け手側も無防備ではいられない。

なんと度し難いことか。どんな事象にも物語を見出してしまう人間の業が、神々の深き欲望なのかもしれない。

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