エレカシにみる30代の心──新海誠論の補足として──

201907/02


Cinemarcheで“新海誠論”を書いているのだが、新海監督のオリジナリティやその作品の可能性を考えるうえでいま、「愛」という領域に踏み入れてしまっている。

2019年7月19日公開『天気の子』


“しまっている”とわざわざ困ったふうにいうのは、それが言葉ではとらえようもなく、また言葉にすれば遠ざかるようなものだからである。

平たくいえば、説明するのは“野暮”というわけだ。

ミスチルの桜井さんはこう歌っている。

“♪愛はきっと奪うでも 与えるでもなくて 気が付けばそこにある物

名もなき詩 1996年リリース


曲名は「名もなき詩」。まさに、それは言いあらわすことができない。

ただ、それをどうにか言語化するのが仕事であり、「愛」が言葉によって意識化されるという大事な役割も、ちゃんとある。

マザー・テレサの有名な言葉に、“思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから”という格言があるように。

そこで、今度はこの曲をとりあげてみたい。


エレファントカシマシの「俺たちの明日」、このライブ映像の後半に披露されている曲だ。


この歌詞には10代、20代、30代それぞれの心情が描かれている箇所がある。

10代憎しみと愛 入り交じった目で 世間を罵り

俺たちの明日 2007年リリース


わかる。わかるよ。

20代悲しみを知って 目を背けたくって 町を彷徨い歩き


宮本さん、わかるよ。町を歩いてたよ。


さて、つづいて30代。悲しみを知った彼/彼女らは、どこにゆくのだろう?


30代愛する人のためのこの命だってことに あぁ 気付いたなあ


なにがあった宮本さん!! でもわかるんだなあ。


愛という言葉は“哀”とおなじ音をもつ。また、新海誠監督の『言の葉の庭』では、恋を“孤悲”と読ませていた。

新海誠監督『言の葉の庭』2013年


たぶんだが、ガラスのハートの少年・少女は、それが粉々に打ち砕かれたあと、その破片をかき集める過程で別のなにかを見つけるんだ。

壊れたものは、元通りにならない。無理にくっつけようとすると、だいたいトラブルが起きる。

では彼らはなぜ、30代で“愛する人のためのこの命”だと気づけるのか。

言い換えればそれは、“他者”という視点が生まれたということである。

10代と20代の者は、それが憎しみや悲しみのなかにあっても、当人は物語の主人公として生きている。

30代になってはじめて、その場を他者に明け渡し、自分が退く場面に直面する。

いや、順序は逆かもしれない。自分が「自分だけの世界」に空けたスペースに、他者が入り込む余地ができる。

ではなぜそういったことが可能になるのか。

ひとつは、悲しみを知り、傷を負ったからである。

自分の弱さに気づいた者は、相手の弱さにも思いをめぐらすことができ、傷を負った者同士で、優しくつながりあえる。

これは決して“傷をなめあう”といった類のものではない。傷から、弱さから、脆弱性から、より強く向きあえるということだ。

一見、“強さ”というと、ああしろ、こうしろと、突きつめれば自分の「欲望」や「所有欲」を満たす行為に付随しているものと思われがちだ。

しかしそれは「俺たちの明日」における20代までの感覚。

ほんとうの強さは、自分の弱さを他者のまなざしに感じとり、他者を他者として認め、かつ自分の傷をさらしながら手をさしのべられる人間にこそ、ある。

じつは、これが新海論の論旨の一部で、こうやって別のエッセイに落とし込む必要があるのは、うまく書ききれていないことを明かしている。恥ずかしい。

新海誠から考える令和の想像力 連載中


エレカシの宮本さんが30秒で表現しているところを、もう、3ヶ月キーボードを叩いている。

だから歌手は尊敬するし、毎晩YouTubeをあさる手がとまらない。原稿を後回しにしているのではなく、勉強しているのだと言い聞かせ……。

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