Vの悲劇
自分もYouTubeを活用するようになったことで、さまざまなチャンネルを見て勉強する機会が増えた。
そのなかにはバーチャルYouTuber、いわゆる“VTuber”の方々もいて、アニメ絵ながらも話す内容のおもしろさに惹かれることが多々ある。
むしろ、生身をさらしてしゃべるYouTuberよりも、イラストの匿名性に守られたVTuberのほうが、表現の自由を極限まで押し進めた「個性豊かな人間味」にあふれている。
たとえるならば昔の深夜番組のノリである。トークは日常の話題からエロ・グロ・ナンセンスまでなんでもアリだ。
ぼくはラジオの代わりに“変な話”を流し聴くのが、いつの間にかの習慣となっていた。
すごいな、おかしいな、つぎが楽しみだなと思う姿勢は、いわばファンと呼んでいいだろう。
そうなると「引退」という事実に直面したとき、悲しみという感情がわき起こる。
VTuberの引退は珍しいことではないが、ある選手が、ある芸能人が、ある音楽家が“引退”するのとは別の重さをもって胸にずしりと響いてくる。
それはなぜだろうかと、考えていた。
先日、このような配信を見た。グループで活動していたVTuberのひとりが、突如、引退宣言をした。
仲間たちはマイクラ(ブロックを設置して町や建物をつくるゲーム)に集い、その子のステージを設けて見送った。
ヴァーチャルな存在が、架空のブロック世界で、別れを告げる。
虚構に輪をかけた世界に「ここはどこなんだ?」とめまいがしたが、戸惑いを覚えたのはそこではない。
中の人たちが、人間的な感情をあらわにして、泣いているのだ。
このギャップに、ぼくは“虚”を突かれた。
これがただのアニメや漫画の別れであれば、そういう物語(フィクション)として受け止められる。
しかし、そこでの“引退劇”は、ヴァーチャルな世界に住まう者たちの、あまりにも人間的な光景であった。
これは虚構なのか。現実なのか。そして、そのどちらに感情を寄せるべきなのか。
この“揺れ”は、そもそも「引退」という言葉への違和感から生じていると、気づいた。
現実世界の人物の引退は、引退後の存在も確認できる。
一方で、虚構世界の人物の“引退”には、その後がない。身を明かさぬかぎり、死んでしまったようなものだ。
匿名性に守られて、人間的なトークを繰り広げていたVTuberは、その匿名性のゆえに、身を引いた瞬間に消滅してしまう。
すなわち、VTuberの“引退宣言”は“死亡通知”であり、リスナーに負債感情のみを残して消え去ってしまう。
“引退後”の彼/彼女らに、感謝の気持ちを伝えることは、もうできない。
この寂しさが、ときにあまりにも辛く感じられる。
個性的な“人間”と出会い、別れではなく、ただ消えてしまうという事態に、人間の心は喪に服す状態に近づく。
その意味では、ヴァーチャルYouTuberは、その名が示すよりは複雑な現実性を抱えた存在といえる。
“引退(脱退)”の理由はいくつも挙げられるだろう。
私生活が忙しくなった、思ったより人気がでなかった、収益化が通らなかった、あるいは剥奪された……。
人間は“いつか”死ぬ。ヴァーチャルYouTubeは、その要因が多すぎるために、“いつでも”死んでしまう。
この脆さに、リスナーはこの先、何度も胸を締めつけられるだろう。
“君は僕を忘れるから/その頃にはすぐに君に会いに行ける”
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