北海道中記「小樽にて」

201805/26

 

先日の大学イベントで、批評家の大澤信亮先生が、文章表現の道を志す高校生へこう問いかけた。「なぜ本を書くとおもう? 辛いことや悲しいことがあって、それを吐きだしたいから? 自分の経験にもとづいて?」そうじゃない、と即座に否定したあとにつづけて答える。「なにより“本を読んだから”でしょう。これこそが本質的なんです。」

 

それを遠くで聞きながらなるほどと膝をたたき、頭の片隅にメモをしておいた。映像にもいえるだろうが、たくさんの優れた表現をみて、知って、はじめて自分も創りたいとおもうようになる。その快楽を自分の手で操りたくなる。大澤先生はまた、「30歳くらいでデビューするのがちょうどいいかな。早すぎても遅すぎても良くない」とつけ加えた。

 

 

 

ちょうどいま、須賀敦子の『ミラノ 霧の風景』を読みかえしていて、それらのことを思い浮かべた。61歳で出版したこのデビュー作は、驚きで舌を巻き、そのまま窒息してしまうくらいの見事なことばと、豊かな感性で彩られている。あとがきには、こう記されていた。

 

“本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つく前にふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本(…)それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。”

 

やはり、こどばの土壌には「本」があり、読んで、読んで、読みつづけてきて、書き手としての意識が芽生えたのであろう。それが彼女の場合は、約半世紀の歳月を要した。「自分のことば」といえるものに出会えるまで、長い長い旅路を歩んできたようだ。

 

どのエッセイも、いかにもイタリアらしいと形容できるひと癖ある友人たちが、じつに生き生きと描写され、その魅力を最大限に印象づけながら、それが失われてゆくまでを静かに綴ってゆく。このように一部始終を語るには、自らもおなじくらい人生を送っていなければならない。“遅れてきた作家”にしか扱えない物語だ。別の言い方をすれば、エッセイが小説になる臨界点で書きつづけられたのは、まさに「時機」だったとしか言いようがない。

 

その文体の秘訣が気になって、須賀敦子と実際に交流のあった作家の関川夏央先生に、「どうしてあのように書けるのか」と不躾にも尋ねたことがある。先生は一言、「日本にいなかったからだよ」と答えてくれた。本を読むだけでも、時を経るだけでもない。「異邦人」であったことが、小説とエッセイのどちらにも近く、しかしどちらとも異なる在り方を可能にしていたのかもしれない。

 

デビューからたった8年後に、自分自身も“霧の向こう側”へと旅立ってしまったことも、どこか小説的である。消えていった仲間たちと同様に、自らもまた本のなかにそっと綴じられたような……。関川先生もご自身のエッセイでおもいでを記しており、須賀敦子も一員のグループでいった小樽旅行などを読むと、その溌溂とした姿がありありと目に浮かんでくる。書いて、書かれて、生かされて。作家同士のつきあいは、なんと素敵なのだろう。

 

移動中に読みすすめていた手を休めると、眼前に小樽港が広がっている。北海道に出張中という身ではあるものの、本でたどった足跡を想い、海の向こうにただようことばの気配をしばし、感じとろうとしていた。

 

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