山陰礼讃⑤「鳥取にて」
【Day3-2 山陰本線 → 鳥取】
兵庫県の城崎から山陰本線の快速に乗って日本海を西に進み、浜坂駅を越えてしばらくすると鳥取県に入る。そこから終点の鳥取駅までは、そう時間はかからない。
鳥取はなぜか自分の後輩や友人が赴任することが多い地域で、その報を受けてはいつも気になっていた。よし、この機会にこの目で彼らの移り住んだ土地とやらを見てやろう、そう意気込んで町に繰り出す。
駅前通りから市街地にのびるアーケードを歩いて数分もすると、ここが行政と文化とがじつにうまく調和した街並みを持っていることに気づかされる。市役所、県庁、裁判所を抜けてゆくこと十数分、それまで前方にぼんやりと見えていた山腹の建造物がはっきりと姿をあらわし、これが「鳥取城跡」であることがじきにわかる。
路傍に立つ案内板に目をやれば、山の地形を利用したこの城郭は、織田信長による中国攻めの命を受けた羽柴秀吉が兵糧攻めをおこない、無情にも攻略された歴史が記されている。しかし、そういった史実よりもまず印象的だったのは、一般的な史跡が往々にして醸しだす“仰々しさ”が一向に感じられず、むしろ緑深い山の木々と一体化した“自然さ”が、少々歩きつかれた私の心を安らかにした。
その親しみやすさ、優しさは、城門をくぐり石垣を登っていった先に見た光景により、いっそう強く胸に刻まれることとなった。絶景とはまさにこのことで、周囲の稜線から市内全体までを一望する見晴らしは、城自体の飾り気がないだけに(復元中)、素朴で純粋な感動として押しよせる。眼下にはすぐ、行政の中心があるのだ。なんと気持ちのいい都市だろう。
このような自然だけでなく、文字どおり「文化」と呼ぶべき博物館が城門前に構えられているのも、外せないポイントだ。休憩をかねて館内に足を運び入れると、思ったよりも広い空間が設けられており、小一時間で地球の歴史をふりかえることができた。山陰線の行く先に、カンブリア紀からヒトの出現する第四紀が待っていようとは思いもよらなかったが、人間の業の塊ともいえる城の山麓に、人間をかぎりなく小さく相対化する壮大な歴史が流れていたのは、まことに有意義だった。
ちょうど特設会場で「谷口ジロー原画展」が開催されており、その足でのぞきにいく。『「坊っちゃん」の時代』をはじめ、『孤独のグルメ』など私でも読み知っている作品の数々が展示されていて目を楽しませていたところ、突如、聞きなれた声が耳に入ってきた。意識するや否や仕事モードのスイッチも入る。
これは…この抑揚は…とやや緊張した面持ちで声のするほうへ移動してみると、やはり、日本映画大学の関川夏央教授のそれだった。より正確にいうと、谷口ジローを語るビデオのなかに、関川先生がいた。谷口作品の多くの原作を手がけていることから、その人となりや解説を加えるべく、2018年制作のドキュメンタリーで証言している。
私は大学のある神奈川県から遠く離れた鳥取で、関川先生とその時間、終始向き合っていた。いつ、どこで、どんな出会いがあるかはわからない。仕事柄、聞き逃すまじとメモをとっていた。
出会いといえば、当地ではもう一つの邂逅があった。後輩で、今年からある通信社の「鳥取支局」で働きはじめた大森記者との再会である。(以下、大森さんと表記。紀行文に書くことも承諾済み。)
この道中、ツバメとしか話してこなかったので(豊岡付近の駅舎に巣が張られていた)、人間との会話は久しぶりであった。ひとり旅は好きだが、ひとが嫌いなわけではない。ドラクエのパーティーだって、ひとりで編成したら寂しいだろう。
忙しい日々の合間を縫って駆けつけてくれた大森さんに感謝の意を表し、嬉しくも道連れができたところでさっそく鳥取といったら「あの場所」に案内してもらう。
東京砂漠から逃れ逃れて、鳥取砂丘へ。駅からバスで15分ほど山間を走り、一気に視界がひらけた海岸沿いで下車。GWでにぎわいをみせる休憩所を尻目に、砂丘に通ずる階段を一歩一歩とのぼってゆく。
来た。見た。上がった…。視界いっぱいを埋める広大な砂山に人々は蟻のように小さく、その奥には、一切遮るものなく波をたたえる日本海。これまたすごいものをみてしまった。
より眺望のよい、「馬の背」といわれる丘列に向かって歩みをすすめる。大森さんはサンダルでやって来たが、その意味をすぐさま理解。沈む、沈む、砂が入る、足元に。決して難しいわけではないが、日ごろ使う筋肉が違うのか、思うようには歩めない。しかし大森さんは板でも足元に敷いてあるかのごとく、軽々と砂の上を渡ってゆく。走ることも可能なようだ。私は、その背中を追うことになった。
額に玉の汗を浮かべながらようやく丘を乗り越えると、ことばが失われた。手持ちの語彙はすべて「すごい」へ。
城跡、博物館で見てきたことが、ここにて極まる。地球は広く、人間は小さい。
私はいくつもの勘違いをしてきたようだ。鳥取に異動する話を聞いては、申し訳ない、「僻地」というイメージがどうしても払拭できなかった。そこで生活することは、さぞかし大変なことだろうと勝手に慮っていた。それがどうだろう。山陰を旅してきたすべての印象につながるが、これほど豊かで、美しい土地もそう簡単には見つからない。
だれが「裏日本」という言葉を使いはじめたかは知らないが、それなら太平洋側は「裏・裏日本」である。大森さんに聞けば、鳥取はぐずついた天気がつづくことも多く、冬にはたいそうな雪も降る。旅行者と生活者では当然、受ける印象も異なってくるだろうが、私はあえて「山陰礼讃」を唱えたい。「陰」や「裏」という文字が引きつける負のイメージに比べれば、そういった事情を考慮してもなお、余りある輝きのほうを称揚すべきである。
感動の勢いそのままに私も走って丘をくだると、見事に足がつった。みなさまぜひ鳥取へ。砂を駆ける大森さんが、案内してくれるかもしれない。
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