第46回 校正をしながら考えた(三校)

201804/22

 

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3月のイベントを終えて間もなく、本当につかの間に、2018年度が幕をあけ日々あちこちを飛び回っている。新調した革靴も履きやすくて足どりは軽い。そんな折に編集を担当したパンフレットが納品され、すこし肩の荷が下りた。

 

最初の話しあいを開いてから約半年だろうか。長かったような短かったような……。まずやるべきことは、支えていただいた方々に感謝を伝えることと、ページの1枚、1枚をふりかえって反省点を意識することだが、きょうのところは一杯飲みたい。

 

 

「想い」というのは不思議なもので、フリーランスのころは“文章に専念するため”という心構えでのぞんで結局やり遂げずにいた一方、就職を機に“与えられた仕事をひたむきに取り組む”というスタンスに切り替えてから、すなわち「自分」を手放してからまた文字と向きあう日々が訪れた。

 

そして“自分が書く”ではなく“ことばを集める”ことの喜びは、人との出会いと似ていて期待と不安がないまぜになったスリリングな冒険であり、かつてのこだわりが杞憂であったことを思い知らされたのもまた確か。“ことば”は「自分」を離れても紡がれるものであった。

 

もちろん、書く行為は「自分のなかにいる他者と出会う旅」で冒険の一つではある。しかし「他者と出会ってみつける言葉の道行き」は、偶然を連れ添って自分を予期しなかった地平に連れて行ってくれる。これもまた楽しい。“ことば”の裾野が広がるようだ。

 

朝晩に寝て起きていてたころの自由は決して“ことば”を与えてはくれず、いらだちを覚えていた。家にこもって書ける作家や研究者は本当に尊敬する。自分は、チラシでもSNSでもレポートでもなりふり構わず片っ端から書くという作業を通すことで、それが呼び水となって“ことば”を汲み上げてくれた。自己管理が苦手なひとには、フリーランスの心情を抱えていても、意外に組織があうのかもしれない。

 

また、組織にいなければ得られない出会いは数多くあるし、そもそも自分の懐を傷めずにそれなりの部数を発行できるのは、紙媒体にあこがれを持つ人種にとっては夢のような話。たしかにそれ相応の責任を負うのは怖いが、自分の足で稼いで成果を上げてゆくことが唯一の務めになるだろう。

 

これからまた1年をかけて、どれほどの高校生と顔を突きあわせるかはわからないが、彼らに直接手渡して反応を確かめながらコミュニケーションをとるのが、いまから楽しみである。“ことば”は生き物であり、活字となったそれを出会いを通してまた“解凍”する。その場に居合わすことが、完成までのあと半分であると心がけたい。

“第46回 校正をしながら考えた(三校)” への1件のコメント

  1. […] 完成したパンフレットをキャリーバッグに詰め込んで、私は博多へと飛んだ。 […]

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