オリンピックに寄せて / 才能のその後に
ついにオリンピックを観ることなく最終日を迎えてしまう。Twitterでは案の定ともいうべきか、「日本すごい!」を唱えるグループと、その姿勢に異を唱えて「〇〇選手すごい」と言い換えるグループとがせめぎ合っていたが、自分はその選手でさえ興味を持てずにいた。自分の人生に関係がないと言ってしまったら、それまでか。
以前からそうだったわけではなく、長野五輪では原田の大ジャンプに興奮し、今でもYouTubeでその場面を視聴しては感動を思い出すこともある。また「日韓」という対立軸にもまったく無関心ではなくて、五輪ではないがボクシングの世界戦、「輪島功一VS柳済斗」のカードで最後の最後に柳がマットに沈み、輪島が王座を奪還した瞬間は(1976年、これまた動画だが)何度観ても涙があふれてくる。加えてよくよく振り返ってみると、人生になんら影響を及ぼさないスワローズの勝敗に一喜一憂している自分もいる。
それでも今、オリンピックにのめり込めない自分が確かにいる。これは果たして異常なのだろうか。普通に暮らしていれば、自然に日の丸を振れるのだろうか。もし旗をとれと言われたら、素直に手を伸ばせるのは生まれた町の紋章か県旗くらいだ。ゆかりのある土地から五輪選手が出たら、自分は笑顔で応援できるかもしれない。
しかしそうはいっても、それではかつて原田選手に涙したことに説明がつかない。この数週間ずっと考えていたが、おそらく求める物語が変わったのではないか。つまり30歳を目前に、選手をみる視点が変化した。ほとんどの代表が年下になるなかで、評価の重きを“若さ”ではなく“その後”に置くようになったのだ。自分は今、“才能のその後”の姿を切に見たいと思っている。
こう言うとき、脳裏には『魔女の宅急便』のキキが浮かんでいる。彼女が突如、「魔法の力」を失って飛べなくなってしまうことは、ここで詳述するまでもなく知られているだろう。これについて、宮崎駿監督は次のようなコメントを残している。
「才能っていうのは、無意識のうちに平気で使っていられる時期から、意識的にその力を自分のものにする過程が必要なんですよ。だから、無意識のうちにやれたことがとてもできなくなってしまうというのは、無意識のうちに成長していくことは不可能だということでもあるんです。」
まさに金言のように聞こえ、「無意識の才能を意識的に再獲得する」過程にこそ、より多くの関心と大きな価値を見出すようになったといえる。たとえば、15歳で金メダルをとった人物がいたとして、すごいのは確かだが“15歳だから(なのに)すごい”というつながりでは認識していない。「その若さで…」という評価軸は自分にとってはどうでもよく、そこに「意識化のプロセス」が働いているかどうかだけが、これからの自分にとっては一番知りたいポイントだ。
たぶん、そういった心境の変化が、“魔法”そのものにあまり惹かれない近ごろの見方とつながっているのだろうと分析した。
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