晴れ間を生きる
柔らかな花の季節から一雨ごとに艶やかさを増す新緑の候、ペナントレースの順位も落ち着きを見せ始めシーズンの先行きが徐々に明らかになってきた。
そして神宮外苑のいよいよ茂る樹木とは裏腹に、パッとしないスワローズの姿を今年も直視せざるをえない。昼間の若く賑々しい六大学野球とは打って変わってナイターのスタンドを埋めるのは、酒臭い四方山話と選手交代を迫るあまたもの監督たちだ。
果たして今宵も劣勢に立たされるスワローズであったが、さして気にしない。勝つ時は勝つし、負ける時は負ける。確かに言えるのはこの生ビールのうまさ。それをよすがとして、照明が煌々と夜空に輝いている間は球場に足を運べる。
いつしかファンというより走光性の虫のようになってしまったが、昔はちゃんと試合展開に一喜一憂していた。テレビに血眼になり中継が終わるとラジオに耳をそばだてる。手を組み祈って延長の末に負けたとなるや、本当に気分が悪くなった。
それが変わったのはやはり上京して野球場のそばに住み出してからだろう。子供の頃リュックを背負って観光バスに乗ってようやくたどり着いた広い野球場。許された時間で、空気さえも無駄にできないと、大きく息を吸い込んだ。自分の席にホームランボールがやって来る確率など微塵もないのに捕り逃がしたら困るからと手にグローブをはめた。
外苑が散歩道に組み込まれ日常の風景となると、白球は当たれば痛い白球に過ぎず、自分めがけて膨らんできた眩しい塊ではなくなっていた。
プロ野球選手になるのが夢だった。でも小学校のリトルリーグからレギュラーになったことはない。守備は最初セカンドでその後サードに変わった。一時は外野もあったかもしれない。要はどこにも置き場のない夢見る子供だった。
そういう子が誰しも考えるように(あるいは教え込まれるように)試合外で貢献してベンチ入りを目指す。球磨きやグラウンド整備といった雑用はもちろんのこと、遠征日には父兄の出す車ではなく監督のワゴンに乗り込もうと躍起になり、話し相手になることでこの存在をアピールすることに努めた。
そのためか名前だけは一端に覚えられたように思う。早くにムードメーカー的な立ち位置に置かれた。車内で監督が笑えばそれだけ気を許してくれたのではないかと素直に喜んだ。そういう些細なサインが子供心には嬉しく響くものだ。しかし遠征先の練習試合におけるスタメン発表の際、終に自分の名は呼ばれはしなかった。
ベンチに入れないメンバーはスタンドで観客に混じって応援歌を歌う。例えポジション争いをしている相手でも大声でその活躍を願い、今から考えると少し抜けているが、その献身度合いが自らのベンチ入りの可能性を高めると信じていた。一方でチームの勝利を純粋に望んでいたことは確かで、声が枯れるまで九人の名前を大空に向かって叫び続けていた。
しかしながらチームはなかなか勝てず、端的に言って弱く、「万年最下位」といった言葉がまさにふさわしい状態だった。それならばと、せめて全員にスタメンが回ってくるようにしたらどうかという声もあったらしい。子を持つ親の気持ちとしては当然だろう。だがチームが勝利を目的とするのもまた当然のことであり、結局、試合前のダッグアウトで名前を読み上げられる興奮は知らないでいる。
さすがに公式戦最後の試合となると、途中交代でもいいから全員が出場できるようにという配慮があり、僕は今か今かとその時を待ち構えていた。父母も応援に来ていて、回を追うごとに気が昂ぶっていく。
代打で名前が呼ばれる。試合はいつものごとく敗戦色濃厚だった。というより、負け戦が決まったからこそ憧れの黒いグラウンドの土を踏めたのだ。端から期待されていない。チームの勝利には影響しない。自分の評価にも関係しない。ないものだらけで迎えた最後の試合の初打席は、投手と自分とが取り残されて野球場で二人向き合っているようなものだった。
思い返せば、そんな打席に何の意味があったのだろう。己のためと言えば形だけは格好をつけられるかもしれないが、それならば「情けはいらない」と言ってのけるほうが僅かばかりの矜持も保てるはずだ。無論、子供が示せる態度は限られてはいるが、誰のためでもないのに嬉々としてバッターボックスに入った自分を恥じないわけではない。ましてや、凡打に倒れた自分のことを。
スワローズの試合はお世辞にも盛況とは言えない。観客が外野自由席の後方でシートを敷いて寝そべっていたり、山盛りソーセージを食べることに夢中になっていたりするなかで、いたずらに明るいダイヤモンドはあの時の寂寞感を胸の内に照らし出す。選手たちは日々勝利を得るために試合に臨んでいるわけだが、シーズン終盤で順位も確定している時期(いわゆる消化試合)の遣る瀬無さは、何より自分に対して誤魔化しきれないだろう。
だがその時打席に立った男はそれでも観衆の心をとらえるものがあった。スワローズの大ベテランにして、アテネオリンピックと北京オリンピックの野球日本代表キャプテンを務めた宮本慎也選手である。彼が静かにバッターボックスに入ると大きな声援が湧き上がった。スコアは阪神と互いに二点を奪い合ったあとゼロ行進を続け、延長戦に突入。十一回裏、宮本にその日五度目の打席が回ってきた。
応援団は力一杯に彼の名を合唱し、僕は後ろに座ってビールに口をあてていた。勝つ時は勝つ、負ける時は負ける。そう心のなかで呟いて投手と打者の間を往き来する白い球を眺めていた。五球でフルカウントになり、少しの間が空く。足で掘り起こしたマウンドからプレートを蹴って球が投げ込まれる。振り抜いた打球はファウル。期待と安堵がどよめきとなって球場に広がる。実際、四打数無安打の調子を鑑みれば、四球を選んで出塁するのがベターというファンの胸中を想像するには難くない。
今度は宮本が打席から離れ、一汗拭う。相手は選り抜かれたリリーフ。次で勝負が決まる、と息を呑む。投げた。乾いた音が神宮の夜空に響き渡る。すぐにそれをかき消すような大歓声が続き、レフトに高々と舞い上がった白球を目で追いかけた。それくらいの報いがあっていいはずだ、と僕はコップを握り締め立ち上がった。長いキャリアで優勝という一条の光が射し込んだとはいえ、その多くは決して強くはないチームに燻し銀のごとく捧げてきた。勝ち目がなくても独り三遊間を駆け巡り、打席ではよくファウルで粘って、機を見た犠打で進塁させる。晴れはあくまで晴れ間として去来し、雲のように流れていった十数年。
なぜ、誰のために? 脳裏をかすめる数多くの問いがこのホームランで清算されたら。
大歓声は数秒のうちにおさまり、ダイヤモンドを途中で引き返しゆっくりとベンチに向かう彼に拍手が送られた。フェンスには一歩、届かなかった。その後ろ姿は大きくも小さくもなく「五勝五敗」を引き受け背負う生の重さに満ちあふれ、彼の足取りをより確かなものにしていた。
バレンティンが60本塁打という華麗なる日本記録を打ち立てたこの日、一人の男が引退した。
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