ビールの苦味
カメラを鞄に入れ忘れて外出してしまった日はどうも味気ない。フィルムを買うお金がなくて装填できずにいる時もそうだ。景色がもったいない、とは妙な言い方だが目に映り通り過ぎていくものたちを惜しく、愛おしく感じ、手持ち無沙汰がかえって日常を特別な光で満たし機を逸した心に淡い影を落とす。
一方、よしとカメラを構えた暁には「いい絵を撮ろう」などという気持ちに急き立てられ、自然に見せてくれたあの輝きはすっかり後退してしまっている。
そういう二律背反を体験しているうちに、例えカメラを準備していても、「撮るべきもの」を探すのではなく「撮るべき時」が訪れるのを待とうと心がけるようになった。
そのため日々の散歩で目にしていたものを、その日に限って撮ろうと思い立つことがある。あたかも段々と打ち解けていき本格的に付き合いが始まるご近所さんとの仲のように。彼らがこっそり教えてくれることには、一見「繰り返し」に見える日常は「積み重ね」の所産であり、付き合いの度合いに応じて現す姿を変えるよ、ということだった。
額に粒状の汗を浮かばせながらアスファルトを踏みしめる。俯くとポロポロと眼鏡に垂れ視界を不快に遮る。ハンカチを押し当てる間隔が十分から五分、そして毎分ごとにと狭まり、もうどの面もすっかり湿ってしまった。
いつもなら近辺をぐるりと回ってから昼食をとることにしているのだが、この日ばかりは暑さと空腹に耐えかねて道すがら見た食堂のガラス戸を引いた。
動きを止めた体に代わって汗がふき出す。品書きに目を通し味の濃いつゆと一緒に蕎麦をかき込みたくなった。でもその前に、とりあえずビールだ。
しかし所持金はほぼフィルム代に消えており、麦酒を頼めば蕎麦が、蕎麦を頼めば麦酒が注文できなくなる。冷えた瓶をぐいと掴み、コップに並々と注いでまずは一杯あおって飲み干したい。だが喉を潤すために食事を抜くなど少し不健康ではないか。
逡巡していると早くしろという視線を火照った顔に感じる。また一つ、首筋に汗が滴り落ちてくる。
「とりあえずビールを。」
次はないのだが、こう言わずにはいられない。
弱めの炭酸が心地よく喉を刺激する。ふうっと息を吐くとすきっ腹に引き立てられたホップの苦味が鼻腔をくすぐった。
ぼうっと酔いに身を任せていると、作業着姿の二人が隣の席に腰を下ろした。どうやら近くの建設現場の男たちらしい。
「先輩はあいつのことどう思います? 口ばっかりで動きやしないんですよ。」
「まあそういう仕事だからな。」
「俺の方が絶対に仕事できます。」
「そりゃわかってるよ。」
「でもあいつあれで金もらってるのが俺、許せないんです。」
「たいして変わらんよ。」
「いや金持ちですよ。あいつはビールを買うんです。コンビニで発泡酒じゃなくビールを買ってるの見たんす。」
後輩の気持ちがいたくわかりすぎて、先輩がなんと答えたのかは覚えていない。
冷気が流れ出すコンビニの大きな冷蔵庫。「一番搾り」を見つめながら「淡麗」を手にとる。そこでちょっと思い巡らす。今日はたくさん働いたし、ご褒美にビールでもいいじゃないか。なに、たかが五十円ちょっとの違いだ。
確かにこれを毎日飲むとなると大きな差額だ。そのお金があれば頭金の足しになる。……そうだな、やっぱりここは「淡麗」しておこう。
いや待て。この「淡麗」と「ロング缶じゃないほうのビール」だったら値段はたいして変わらない。今晩はビールといこう。でもな、酔えるかな。酔ってあいつのこと忘れて寝ちまいたいんだが。
悩むこと数分、コンビニから出てきた彼の手提げには発泡酒よりも安いプライベートブランドのロング缶が二本並べて入っていると想像する。
熟考するほどビールが遠くに流れていく生活のなかで、一足飛びにそれを掴みレジに持っていける“あいつ”は驚きに値し腹立たしさも倍増、といったところだろう。そんな時ひとは善し悪しを説くのでもなく理由を見いだすのでもなく、黙ってコップを持ってくる。「まあ、とりあえず」と言って栓抜きで王冠を軽く叩き、この後輩のコップに程よく泡立て注いであげるのが「とりあえずビール」の好ましい用法の一つと数えたい。
喉の奥にビールの芳香がしばらく残る初夏の陽気の一風景である。
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