短編小説3『ナオさん』

201407/26
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 「ノリ、帰ってきただか」とナオさんは小走りで駆けつけ息子を抱いた。「大きくなっただなあ。すぐご飯の支度するからな、父ちゃんにも顔出しておいで。」マツスケは庭の畑で土いじりをしていた。「父ちゃん。」ノリヒコは丸まった背中に語りかけた。「こんなに寒いのになにやってるんだ。」「冬には冬でやることがあるだ。」マツスケは振り返らず言った。

 

 「それとこの新しい家屋はなんだい。ここ畑だっただろ。増築したんか?」

 「ノリたちが住むところだよ。知り合いの左官屋に手伝ってもらっただ。」

 「ちょっと待てな、おれら長野に住むとは決めてないぞ。」

 「長男が出て行ってどうする。」

 「ミツコだって長女だ。それもあの大家族の長男の娘で……」

 「妹さんのほうがきれいだったな。」

 「父ちゃん……」ノリヒコは肩を落とした。「相変わらず勝手だな。」ナオさんの声が今や“母屋”となった家から聞こえてきた。

 

 ナオさんの得意料理「炊き込みおこわ」が食卓に並んでいた。餅米のなかに椎茸、桜えび、イカなどを入れ、醤味、みりん、砂糖で味つけして炊き込む。さじ加減はナオさんの長年培ってきた感覚により、どの親戚がつくっても、まだ同じ味が再現できていない。めでたいときに出される“おふくろの味”だ。

 

 「ミツコさんは元気かい?」ナオさんはおこわをよそいノリヒコに尋ねた。

 「ああ、実家で静養している。」

 「ユウスケは元気だか、ユウスケは。」

 「これが写真だ。」ノリヒコはマツスケに泣いたり、笑ったりしているユウスケを見せた。ナオさんも顔をのぞかせる。

 「ミツコさんに似てるだなあ。」

 「ノリに似てるだよ。ナオ、ノリの赤ん坊の頃の写真、持ってきてくれ。」

 「いいよいいよ、おれが取ってくる。母ちゃんは座っといてくれ。どこにある?」

 

 ノリヒコは二階の自室に上がった。なにもかもが昔のままだ。つい昨日、家を出たかのように。この家、この村が嫌で、一人強くなりたくて、極真会館の館長に手紙を出した。返事が届いて驚いた。そこには直筆でこう書かれていた。「君は大人になるときが来た」と。もう一度、そらんじてみる。君は、大人になるときが来た。26歳、先月父親になったばかりの身には、前とは違ったかたちで心に響いた。

 

 アルバムを抱えて居間に戻ると、父と母は身を寄せ合い、ユウスケの写真を眺めていた。なぜだかわからないが、ノリヒコは今までよりもはっきりと自分が親になったことを実感した。

 

 「どの写真のノリも無愛想だな。これじゃ比べられないだ。」

 「……父ちゃん、おれが子供の頃、館長からの手紙燃やしたの覚えてるか?」

 「そんなの忘れちまっただ。空手はまだやってるだか。」

 「もうやめた。」

 「そうかあ。」ナオさんは胸をなでおろした。「あれは痛いだよ、ずっと心配してただよ。」

 「母ちゃんこそ体大丈夫なんか? まだめまいとかするか?」

 「おらは大丈夫だ、なあ、ユウスケ。」写真を見つめながら言う。「あったかくなったら会いに行くからな。」

 「そうだな。」とマツスケも首肯した。「あそこはツツジが有名だと聞いただ。向こうではいつ頃咲くだか?」

 「五月。気候もちょうどいい。待ってるよ。」

 

 正月休みの最終日、マツスケはノリヒコを車に乗せ、最寄りの駅まで送った。ナオさんはその日少し調子が優れず、布団のなかで寝ていた。「ごめんなノリ。」「ゆっくり休んでくれ。おこわ美味しかった。そうそう、これ、勤続25年のお祝いだ。」ノリヒコは別れ際にミツコと選んだ赤いセーターをナオさんにプレゼントした。「よく働いたな。あったかくしてな。」

 

 「母ちゃん本当はよくないんだろ。自分はほとんど食べなかったな。」

 車中、マツスケは黙っていた。

 「なあ、父ちゃん、母ちゃんはおれの母ちゃんでもあるんだ。なにか言ってくれ。」

 「医者がたくさん薬を出してる。なんの薬かわからねえ。外出もあまりできねえだ。すぐ疲れちまう。ノリは心配するな。おらがなんとかする。」

 

 

 三月、ノリヒコとミツコのマンションに電話がかかった。マツスケからだった。ナオがどうしても今ユウスケに会いたいと言い張ってきかない。まだ寒いし遠出は無理だと説いてもだめだ。こんなナオははじめてだ。迷ったが、ノリヒコたちがよければナオを連れて行きたい。ナオのわがままに付き合ってくれないか。――わがままなどではない、大歓迎すると返答し、ナオさんを迎え入れる準備に動き出した。

 

短編3『ナオさん』

 

 「お父さん、こうやって二人で長旅するのははじめてだなあ。」

 「……戦争から引揚げてから、おらもナオも働き通しだったな。」

 「なにやってるだか?」

 「ナオの薬を服用法ごとに分けてパックに詰めてるだよ。これなら忘れないだ。」

 「器用だなあ。」

 「おらは外でも看病もできる。たくさんみてきたから安心するだ。」

 「……ああ、戦争でか。」

 「次の駅でご飯食べような。乗り換えに一時間はあるだよ。」

 

 電車を乗り継ぎ、山から平野に下り、息子夫婦の住む町へと向かった。マツスケは休みをこまめに取り、座席では端に腰をかけて、ナオさんが体を少しでも倒せるよう気を配った。

 

 マツスケとナオさん夫婦が到着すると、ミツコの一族は総出で二人を出迎えた。マツスケは一家の代表として、招かれた貸切りの料亭であいさつをし、一人ひとりにお辞儀して回った。ナオとノリに恥をかかせないようにとあつらえた背広を着て。

 

 マンションではナオさんが横たわりながら話せるように部屋の一角に沿ってソファが並べられていた。これは楽でいいなあ、とナオさんは喜んだ。ユウスケの小さな体は、炬燵に入ったマツスケとソファにもたれかかるナオさんのあいだを行き来した。

 

 そんななか、ナオさんがよろよろと起き上がり、お風呂場までやって来た。

 「なんでこんなに泣いてるだ?」

 「ユウスケはお風呂が嫌いなんだよ。」

 「そんなことはねえよノリ、赤ん坊ってのは、みんなお風呂が好きだよ。入れ方間違ってねえだか?」

 「母ちゃん、この子は本当に嫌いなんだって!」

 「そうかあ。気持ち良いのになあ。」

 

 マツスケとナオさんは一泊だけした。その短い滞在時間でほぼすべての親戚に顔を合わせる強行軍となった。最後の面会者は、やはりまたユウスケだった。

 

 「ユウスケ、出会えてよかった。みんなも会わせてくれてありがとう。無理言っただな。でもな許してくれ。たぶんおらはもうここには来られない。……ユウスケ元気でな。」

 

 誰もそんな言葉など信じずに、人生まだまだこれからですよと老夫婦を見送った。ナオさんはたった一日で多くの人々の心をつかんでいた。

 

 「お父さん、わがまま聞いてくれたうえに、気も遣わせてしまったな……。スピーチ、うまかっただ。」

 「いいだよ。ユウスケはノリとミツコさんの半々だったな。」

 「写真とは違う。動いただ。」

 「そりゃ動くだよ。」

 

 二人で微笑んだ。そして行く前に交わした約束通り、帰ったら診てもらってくるなとナオさんは言い、マツスケはゆっくりと頷いた。

 

 

 ナオさんは乳がんだった。村の医者ではわからず、町の大きな病院の検査でようやく判明した。すぐに手術を要する段階だった。乳房の切除だ。その知らせを受けた者はみなナオさんの身を案じた。あの優しさが忘れられなかった。それが消えてしまうなんて想像したくもなかった。

 

 

 四月、手術は成功したとの一報が届いた。ノリヒコは入院中の母を見舞いに長野に向かった。病室のベッドでナオさんは静かに寝息を立てていた。長年にわたる勤労に贈った赤色のセーターを着て。ノリヒコはしばらくナオさんの横に座っていた。

 

 「……ノリかあ。」

 「動かなくていいよ。そのままで。」

 「いや、ちょっとな、トイレに行きたくてな。」

 

 ノリヒコはナオさんの腕をとり、一歩ずつ、進ませていった。出てきたときも同じようにベッドまで足を運んだ。ありがとう、ありがとう、とナオさんは繰り返した。

 

 「ユウスケは元気だか?」

 

 会話の代わりに、あれからのユウスケの成長の様子を話しつづけた。育児の話題には事欠かない。ノリヒコにとって毎日が発見の連続だった。ナオさんはそんなノリヒコの顔を見て、いいようのない安堵感を得た。

 

 「母ちゃん、疲れたか?」

 「よく育ったな。」

 

 ノリヒコは立ち上がった。もう時間だ。ナオさんの顔色は決していいとは言えなかった。あ、と思い出し、部屋を出る前に振り向いた。

 

 「そうだ、ユウスケな、風呂で泣かなくなったぞ。」

 「そうか、そうか。やっぱりな、気持ち良いところがいいだよ。」

 

 

 

 帰りの電車でノリヒコは胸騒ぎを覚えた。その予感は拭っても拭っても白いシーツに染みついた一滴の血のように頭から離れない。帰宅してまもなく電話が鳴り響いた。ノリヒコは受話器を手にし、表情を変えずに「頑張ったな」とつぶやいた。ミツコがユウスケを抱えどうしたのかと聞いた。「母ちゃんが、死んだよ。」

 

 ナオさんは一人トイレで倒れてこの世を去った。ノリヒコはとんぼ返りで長野に戻った。ミツコとユウスケは翌日に赴き、葬儀の準備に加わった。親戚たちは泣いて怒っていた。これは医療ミスではないかと。執刀医も弁明した。「なにが起きたのかわからない。今後の医学の発展のためにも解剖させていただけないか。」この言葉を聞いて、それまで泣きもせず気丈にいたマツスケは一喝した。

 

 「これ以上ナオの体を切らないでくれや! おらは小卒で医学のことなどわからねえ。でも死んでからも人を苦しめるのは医学じゃねえ。」

「しかし……お亡くなりになっているのですよ。苦しむといったことなど……」と若い助手は言葉を濁しながらも言った。「失礼ですが、なにか宗教的な観点でも?」

「宗教もなにもないだよ、ナオが死んだ、ナオを守る、家族の責任だ。けえってくれ!」

 

 騒動はこれだけで、あとは粛々と一連の儀式は執り行われた。親族は装束を身にまとい列になって村を練り歩く。村人はナオさんが、あのナオさんがと表に立ち深く礼をする。ナオさんからの別れのあいさつだ。(ありがとう、ありがとう……。)すべての家を訪問し終えると、マツスケはミツコに言った。

 

 「ここは寒いところだ。ユウスケを帰してやってくれねえか。風邪でも引いたら大変だ。……ミツコさんのところは温かかっただ。ユウスケは、そこで育つのがいい。」

 

 長男の嫁が途中退席するのは掟破りだったが、マツスケは一同の理解をとりつけ、ミツコとユウスケを駅まで送らせた。「ミツコさん!」マツスケは車に向かい叫んだ。「ユウスケを頼むだよ!」

 

 

 五月、ツツジが咲き乱れた。

 「うーん、どうしてもあの“炊き込みおこわ”の味がでないや。」

 「確かに違うな。でもいいんじゃないか。今度はこの味がユウスケの“おふくろの味”だ。なあ。」

 ユウスケはすやすやと眠っている。――行き交う命。新しい土地で、新しい家庭が、一瞬交差した命のうえでまた築かれようとしていた。

 

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