シカミミの絵日記19『学生九条の会 / ドライブ・レンタカー』
その日の授業後「あの、共産主義は好きですか?」と見知らぬ青年に尋ねられた。あたかも「綺麗なお姉さんは好きですか?」と聞くかのように。思わずハイ、と答えてしまった。これが運命のはじまりだった。彼の名はSと言った。
しかし実際にはただのノリで返答したわけでない。その頃リーマン・ショックが引き金となった世界的な金融危機が蔓延しており、経済学科の学生だったぼくは“社会科学の女王”を謳う現代の経済学に疑問を抱いていた。科学的で数理的な体系を築いてきたはずの経済学はこの現状をどう見ているのか? それは規範を示すのではなく実証を試みるものだとは知りつつも、ある経済学の先生に、経済学と社会との乖離を問うてみた。
「あのね、リーマン・ショックは災害のようなもの。突如おとずれる災害にどうしろと?」
ぼくは落胆を通り越し怒りを覚えた。その目には「人間」が映っていなかった。汗水たらして働く人間が。いま、産声を上げたばかりの赤ん坊が。わかった、いつまでも“災害”に対して研究室というシェルターにこもっていればいいさ。ぼくは“人間の顔をした経済学”を求め、所属学部をいっとき離れて、さまざまな学部を放浪することにした。その旅路で出会ったのがSだった。
断るまでもないが、ぼくもSも共産主義者ではない。現実の共産主義国家がもたらした人々への弊害や抑圧を知っている。だからといってこの経済社会を肯定することもできない。要するに冒頭の問いかけは「オルタナティブな社会に関心がありますか?」ということだった、と連れて行かれたドトールで話し合ってわかった。彼は政党色のない「九条の会」を目指し、そこから自立した、問題意識を持った個々の学生が主体的に集える「学生九条の会」を立ち上げていた。
当然、森田さんも入りませんか? と勧誘されたわけだが、当時のぼくは警戒心の塊で、学内をふらつく一匹狼、教室のいちばん前に陣取り「オレに声をかけるな」オーラを出しているような者だった。Sのすごさは、まずそのオーラに気づかぬ鈍感さにあった。ぼくは学校から遠いところに導かれそうだったら、すぐさま逃げるつもりでいた。だが近場のドトールだった。会話中も変な契約書にサインを求められたらペンで突き刺す気でいた。……Sはただ、自問自答しながらほとんど独りでしゃべりつづけた。こいつは無害だ、と思った。
それから一週間後、ぼくはドトールではなく広島にいた。Sはドトールよりも遠くにぼくを連れ出したのだ。それもK点越えといってもいいくらい、ぼくの身体を遠方に飛ばした。
この年の合宿は八月の広島市で行なわれた。ぼくはメンバーたちと史跡を巡り、六日には平和記念式典に参加した。国連の潘基文事務総長がメッセージを送った。暑い暑い夏の日だった。
「原爆ドーム」を見たのはそれが初めてだった。旗を掲げた多くの団体が騒がしく周辺を取り巻くなか、ぼくの心はドームのなかへと吸い込まれ、やがて静寂に、そして言葉にできない「痛み」を感じた。そこには暴力以外のなにものでもない力が行使された。暴力は痛い、当たり前のことかもしれないが、それは写真では伝わってこないものだった。原爆ドームを目の前にし、ぼくは暴力をふるわれた。それは愛する人にも襲いかかった。なすすべもなく立ち尽くすしかなかった。過去か今かわからない時が立ち現れ、ぼくは暴力の痛みに必死に耐えていた。写真など撮る余裕はなかった。
「痛み」がぼくを恐れさせ、その後、筆を走らせた。広島合宿は自分の活動の原点となった。また実際にその地を踏んでみることの重要性を思い知った。そのとき、横たわっていた歴史は垂直に立ち上がり、生きている者に語りかける。……お前はこれにどう応答するのだ? と。
冬休みには「沖縄スタディツアー」がNさんの企画で立てられた。各々がそれぞれの問題を出し合う。沖縄戦や米軍基地、そして高江へのヘリパッド建設など。沖縄の光と影を見たこの合宿が、学生の手による過去から現在への命の橋渡し、「学生九条の会」の集大成となった。
学生の手、それは移動手段にも及ぶ。沖縄には電車がない。よってそれは車となる。しかしセダンでは乗り切れない人数だ。ぼくたちは集団の輸送車として日産の「キャラバン ハイルーフ」を選んだ。これなら十人ほど収容できる。
予想通り、誰もがその運転を怖がった。こんな大きな車、運転したことがない。そこで一度東京から試乗してみることにした。目的地は江ノ島。運転はぼくと後輩のKくん(共産主義や東欧諸国にやたら詳しい)がやってみることにした。
キーを渡され、車に乗り込む。どこに挿せばいいのかわからない。さっそく店員のお兄さんを呼ぶ。「ここです。」「どうも。」つづいてシフトレバーが見当たらない。欠陥車か? お兄さんを引き戻す。「ここです。」「どうも。」ぶるるんっと車体が唸る。
「Kくん……」
「なんですか?」
「この車、後ろが見えないね。」
「!!」
車体が長いと振り向いたってなにも見えない。どうやってバックするの! ねえ、お兄さん!! と窓を開けるもすでに立ち去ったあと。“学生の手で”とは、後方確認できない車に乗る勇気も指す。
しかしながらアクセルを踏んでしまえば普通の車の運転と同じだった。前を見るだけで、江ノ島までたどり着き、海を見ながら沖縄に思いをはせる。日も暮れて、帰りの運転はKくんに。
「森田さん……暗いです。」
「夜だからね。」
「後ろだけじゃなく、前もよく見えなくて……」
「とにかくアクセル踏めばいいよ。同じことだよ。」
Kくんはなにかから逃れるように飛ばした。一刻も早く着きたい、そんな気持ちだったのだろうか。自動車道も快調に通り抜け、一般道への出口へ。望むゴールはもうすぐ。Kくんの顔から緊張が解ける……ぼくに緊張が走った。
「Kくん、Kくん!」
「はい!」
「逆走してるよ、この車!」
「はいぃ!!」
辺りにブレーキ音が響く。KくんはUターンしようと後ろを振り向く。見えるのは恐怖に駆られたメンバーの顔だけ。Kくんは体の感覚で車体を動かしていく。ゆっくり、ゆっくりと……。今度はこれまでの人生に思いをはせた。ドトールが脳裏をかすめる。消えろ消えろ束の間のコーヒー! あの一杯で死んでたまるか!! ……対向車の光は天国の光を意味していた。
まばゆい陽光に照らされて、キラキラと輝く青い海。ぼくらは普天間基地の移設先と目されている辺野古に来ていた。あれから無事にここまでたどり着いた。奇跡としか言いようがない。生の実感をかみしめ、ぼくはこの美しい海を眺めていた。
行けばわかる。ここに基地がつくられることが、いかに不釣合いでおかしなことか。この調和を体感すれば、それを崩すことが暴力に見えるだろう。高江へのヘリパット建設もそうだ。人と自然の声を押し殺して無理に力を加えることは、戦争と地続きの「暴力」に他ならない。高江で目撃したのは、文字通り、体を張って工事を止めようとする住民の姿であった。道沿いにネットを設け、四六時中監視しあって、工事道具の搬入を防ぐ。作業員がトラックの荷台から降ろそうとする土嚢には手で押し返す。道一杯の人だかりと混乱。この沖縄防衛局と住民の争いには警官が割って入る。興味深かったのはここで、東京における車道占拠なら警官はすぐにでも捕まえにかかるだろう。しかし高江では、警官は仲裁役のように振る舞っていた。思うに、同じ地元の警官として、抗議ではなく暴力のほうこそ看過できない代物なのだ。沖縄戦の記憶のうえで、工事の強行と中止、そして再開が繰り返されていく……。
沖縄にはガマという洞窟がいくつもある。沖縄戦では住民の避難場所となったが、同時に集団自決の場となったところもある。ぼくらはそのうちの一つである「チビチリガマ」という洞窟に入った。避難した140人の住民はアメリカ兵に投降を呼びかけられた。自決か、投降か。――“生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すことなかれ”――集団自決に至った。
ここはもう、「痛み」が身体を貫き、写真を撮れないばかりか、なかに入ることさえもままならなかった。数々の声が聞こえてくる。どれも“なぜ?”という疑問ばかり。なぜ死ぬの? なぜ戦うの? なぜ……あなたは生きているの?
答えられなかった。生きていることを負い目に感じた。申し訳なく思った。もちろん戦争当時、生き残るもなにも、ぼくは生まれていなかった。それでもガマに入ると時が止まり、生き残った自分の命の鼓動が、死者に響き渡っているような気がしてならなかった。
戦争は終わっていない。多くの米軍基地がここにはある。でもそれだけじゃない。「一握りの強い者がその利益のために無数の弱い者に暴力をふるう」構造が、戦争の後もずっとつづいている。だからぼくらは問われている。この“戦争”をどう終わらせればいいのかを。
この合宿のなかでNさんはメンバーにどうしても見せたい場所があると言い、ぼくらをそこに案内してくれた。茂みをかき分け、坂道をのぼってあらわれた世界に、みなで息を呑んだ。
その名も「ジュゴンの見える丘」。見渡すかぎり美しく、果てしない海が広がる。沖縄では海のかなたに「ニライカナイ」という楽土があると信じられている。そこは現世と往来できる場で、沖縄の光と影を、生と死を象徴しているかのように思えた。死者は生者に語りかけ、生者もまた死者に祈りをもって応答する。ぼくらはそこで時を忘れ遠くを見つめていた。
宿もまたとても居心地のよい民宿だった。内ではカードゲーム、外ではバーベキューなどして「ああ、大学生をしているなあ」とやっと感じられた。同時に自分を腐らせていた「リア充」への偏見も薄れていった。
ところが……寝床に就いた夜半に電話が鳴った。メンバーのYくんからだった。
「森田さん、助けてください。」
「どうしたの?」
「車が動かなくなっちゃったんです。」
そういえばYくんは散歩に行くと言って民宿を出ていた。
「どこにいるの?」
「わかりません……山道の一角です。」
大騒動になった。急遽「九条捜索隊」が組まれることになり、真っ暗な山道を歩くこととなった。辺りは電柱一本もない、都会では目にすることのない漆黒の闇だ。民宿に残った「待機組」に状況を伝えながら、捜索隊は懐中電灯を手に黙々と歩いた。“キャラバン”を探しに“隊”が行くか、ははは、などと笑えるか! この! ぼくは怒っていた。車を使用しかつエンストさせたことにではない。……Yくんは彼女と二人で車に乗って立ち往生しているのだ! 人命優先とはいえども、この、なんともいえぬ、いらだち……リア充め!!
遭難者たちは携帯の電池も切れたようで、救助はもう警察に任せようかと(いらだちもあって)考えた。しかし、わずかばかりの良心が背中を押した。九条の名のもとに、人命を救助する!
本当に山道の一角に車は止まっていた。泣いていた。こっちは疲れていた。確かにキーを回してもエンジンがかからない。聞けばライトを点灯したまま「ごにょごにょ」してたという。早く終わらせていればバッテリーは切れなかったはずだよ!! JAFだJAF!! ということで待機組に連絡。民宿からJAFに連絡してもらうことに。すると、この民宿からかなり距離のある名護市からの救助となり、二時間かかるという。それでは遭難者と捜索隊ともに明け方まで山奥で過ごすことになる。
「Sよ、押して帰ったほうが早いんじゃないか。」
「押すって、車をですか。」
「ほかになにを押すの? 愛のスイッチ? ねえ?」
Yくんにはハンドルを握ってもらい、ぼくとSは車の後方から力を込めて押した。5メートルほど進んだところで「ぶるるんっ」と振動が手に伝わった。エンジンが、かかったのだ。
「押してみるものですね。」
「Sがぼくを押したように。」
ぼくたちはこんなふうに“学生の手で”九条の会を運営してきた。自主的に現地に赴き学習することは、「沖縄の奇跡」(別名「ロマンスカー事件」)を見てもわかるように時に困難を伴う。でも思考を書籍だけに委ねていたら、自分たちが死者と過去に応答すべく生き残った者である、という体感ができないだろう。この「体感」なくして戦争とは向き合えない。戦争は、「痛み」をもたらす暴力でしかないのだから。
※日本国憲法 第二章 戦争の放棄
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
※関連エッセイ『祖父の十五年戦争 / 満州入植からシベリア抑留へ』 https://shikamimi.com/notes/2518
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