シカミミの絵日記13『冬の旅』

201401/19

 

 Pコートを身にまとい少し足早に風を切って歩き、道端の自販機で買った缶コーヒーを握りしめ、通勤電車にすべり込む。冷気でこわばった顔がだんだんと和らぎ、流れゆく景色をなんとなく見やっていると、このままどこか遠くへ行ってしまいたい、と思うことがある。鞄から文庫本を取り出し、時を忘れて読みふけり、ふと見上げた駅で降りてみたい。

 

 自分はどこから来て、どこに向かうのだろう、こんな気持ちになるのは、いつも冬という季節である。夏はまばゆい陽光を浴びているだけでいい。冬にようやくその温もりが心に届き、ぼくを内面への旅へと誘う。これまで多くの場所に足を運んできた。車で、船で、飛行機で。でもそういった旅先で残るのは思い出ばかりであり、その重みが寂しさに繋がっていることについ最近気がついた。

 

 なにも背負わずに旅をして、足跡さえも残さずに、この自分に一歩でも近づきたい。あるいは友に、そして愛する人に、歩み寄りたい。人と人とを隔てている壁を取り払い、そんなことは無理だとは知りつつも、心に棲む孤独をすべて掃ききってしまいたい。これからの旅に必要なのはカメラでもシュラフでもなく――口にしてしまえばまったく月並みに聞こえてしまうが――旅路をともにする仲間である。

 

 つい先日こんな話を耳にした。仕事で遠方に出掛けたとき、海峡で東京のレインボーブリッジのような夜景に出くわした。これは綺麗だ、美しい、と感じたものの、その感動が今ひとつ沁み渡ってこない。その人はそれを一人で眺めていたのだ。いわく、目にした感動を共有する他者がいなければ、たとえそこがどんなに名勝であろうとも、ただのちっぽけな風景に過ぎない。体験に意味づけをしてくれる人がいるからこそ、文字通り景色に“色”が生じてくるのだと。

 

 この感覚はよくわかる。おもに大学時代、気の向くままに各地へ飛び回っていたが、今思い返せば白黒のフィルムのようにしか目に映らず、かっこよく言えばさながらさすらいの旅人だったが、それは結局、内向的性格と人間嫌いを強めた修羅の道だったと思う。そこで撮りためた“意味づけのない”写真はもう燃やしてしまってかまわない。その灰はこの冬の空に返してやるのだ。

 

 一度は旅路に迷い込み、そして今、朝露に濡れた舗道に立っている。この日常が愛おしい。仕事があり、心地よい夕べがあり、また朝を迎えられる日々が。肉体的疲労は精神的旅路を照らし出す。そこになにが見えるか、目を凝らしてみてみよう。今までには見つけられなかったルートが開かれている。電車が来るまでの数分間に、居眠りするサラリーマンと同じく首を垂れる受験生とのあいだに、街を歩く黒山の人だかりに、不条理と条理の境目に……。

 

 旅の推進力は足ではなく言葉に代わりつつある。カメラはいらない、言葉で道程を切り取ってみせるから。思い出もいらない、この生きた日常の上に旅を築きたいから。ただ仲間だけが、寄り添う人だけが、今後の旅を導き、それに彩りを与えてくれるだろう。ぼくの言葉と他者の言葉とが、作品と作品、偶然と偶然とがぶつかり合い、夜ごと火花を散らす。

 

 共生すること、または協働することは、相手の人生における決して短くはないある瞬間をもらっている、あるいは浪費させている。そこに生じるこの上ない喜びと、限りない責任。それらをともに胸に抱え、毎日、電車に揺られている。

 

 線路の先に思いを馳せるも、今日は新宿で降りるだろう。明日も、あさっても、新宿で降りるだろう。それでも、いやそれだからこそ、旅はつづいていく。振り返ってはいけない、過去はトランクに詰めてしまえ。旅は思い出ではなく、今を生きることに他ならないのだから。

 

冬の旅

 

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