『セルフ・ポートレイト / Mの肖像』
「花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ。」
この有名な言葉をいつどこで覚えて、今までポケットの中にしまいこんでいたのかわからない。長い間、取り出せばさまざまな別れを無意識のうちに片づけてくれる優れものだった。そしてすべてが去ったあと、人は生まれるのもひとり、死ぬのもひとりと言い聞かせてきた。
周りから与えられる役割、人との関係性の束が、その時その時の自分を形成すると方々で語ってきたが、それはまた、その時の関係性を突き破って成長していく過程でもあった。つまり「さよなら」の連続であり、同じ場にとどまっていたことはほとんどなく、多少の誤解も生みながら、振り返らずに次なるステージを目指していった。しかし正直に言えば、“孤独好きの寂しがり屋”という相反する性格が、ときに抑えきれない葛藤となって自己を駆り立て、周囲を巻き込む結果となっていったのかもしれない。
かっこよく言えば自由でいたかった。またそのように振る舞ってきた。過去の活動も今の脱就活もひたすら自由を守ってきたように思う。一瞬に命を賭けていつ死んでもいいように生きること。そこで打ち立てられる関係性は束の間で、いつも列車から眺める景色のように流れていった。
2014年は快晴のもと迎えられた。寒すぎず、少しひんやりとした空気が心地よい。初詣をし、お守りとおみくじを携えて近所の公園まで歩き、空を見上げた。今年のことをつらつらと考えていると、やはり「自由」と「さよなら」のことが思い浮かぶ。心の中で、それらをかけた天秤が揺れ始める。そんなときに、イヤホンからディランの《BALLAD IN PLAIN D》の最後の一節が響いてきた。
Ah, my friends from the prison, they ask unto me,
“How good, how good does it feel to be free?”
And I answer them most mysteriously,
“Are birds free from the chains of the skyway?”
牢獄につながれた友人がぼくに尋ねる
自由であるというのはいい気分だろうね
ぼくはとても神秘的に答えてみせる
空行く鳥は、空の鎖から自由だろうか?
「空行く鳥は、空の鎖から自由だろうか?」に胸が詰まる。ぼくが自由をどんなに高く掲げて見せたところで、“空の鎖”からは自由になれない。自由とはかくも厳しく、孤独で、寂しいものだ。
一方で、寺山修司はこう述べている。「どんな鳥だって想像力よりは高く飛べない」と。これもいい言葉だ。しかし、別のところではこう問いかける。「鳥は鳥でも飛べない鳥は?――ひとり」。
想像力は“空の鎖”さえも引きちぎるかもしれない。しかし「ひとり」では羽ばたくことはできない。新年にぼんやりとアフォリズムと戯れていたら、結局、空の青さだけが目に残った。ぼくは今、飛びたいんだと切実に感じた。すると、言葉がせきを切ったように次から次へと溢れ出てくる。
さよならだけが人生だなんてまっぴらだ、花に嵐のたとえはたとえ、むしろぼくは花を持って歩きたい、想像力の呼び込むほうへ、時を止めてその花を渡したい、そして羽ばたきたい、いま、ここで。
人生に深く根ざしていた「さよなら」に終止符を打とう。いつ死んでもいいが明日死ぬのは嫌だ。そうやって、ちょっとズルをして、生きのびていこう。自由は真顔でとらえるものではなく、互いの笑いの中からたまにこぼれてくればいい。
帰宅後、中島らもの『サヨナラにサヨナラ』というエッセイを引っ張り出す。
“人間の実相は刻々と変わっていく。無限分の一秒前よりも無限分の一秒後には、無限分の一だけ愛情が冷めているかもしれない。だから肝心なのは、想う相手をいつでも腕の中に抱きしめていることだ。(…)二本の腕はそのためにあるのであって、決して遠くからサヨナラの手をふるためにあるのではない。”
二本の腕はまた、各々の鳥が飛ぶためにあるとも言えよう。
絵:さめ子
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