シカミミの絵日記9『いつもの朝に / One Too Many Mornings』
前に『それぞれの夜の過ごし方』と題した絵日記で、夜は労働から解放された人々が自分と向き合える“目的の時間”で、そのなかでも何十年かに一度、「生きていてよかった」と思える夜があり、その思いさえあれば、あとはゴミクズみたいな日々でも生きていける、というようなことを書いた。夜はやさし。それぞれの人の在り方が見えてくる。
一方で朝はどうだろう。起床からの時間はすべて労働に向かうための“手段の時間”にみえ、だいたいは辛いものではないだろうか。とくに月曜日。ハンマーで叩き起こされたかのような目覚ましの音。一週間がはじまる。あまりの物憂さに《辛い月曜日》というブルースを頭のなかでつくって歌っている。
「夜」は“それぞれ”で、「朝」はいたって“いつもの朝”である。でも、昔からこうだったろうか。子供のころは目覚ましの音を覚えていない。それが鳴る前に、ある瞬間にぱっと目を開き、あとはドタバタと元気いっぱいにはしゃいでいたような気がする。子供にとって朝は毎日“未知との遭遇”であり、どんなことが起こるか、どんなものに出会えるかと、意識せずとも胸を高鳴らせているのである。
そこで、過去から現在にかけての朝を振り返り、夜に比べて無愛想な朝の多様性を探ってみよう。まずは幼少期だが、ヨーグルトを食べていた。そして今も毎朝ヨーグルトを食べている。旅先でもどこでも、寝起きにはヨーグルトを手に持っている。朝を貫くこの習慣、母に尋ねてみると、一歳のときに試しにヨーグルトを食べさせてみたら別にお腹もこわさなかったので、それ以来ずっと朝に出していたそうである。試さないで欲しい、と思うがおかげで24年間ヨーグルトを体内から切らしたことがない。
ヨーグルト効果もあってかすくすくと成長したぼくは大きな病気もなく小学生になる。その朝は、登校班の記憶だ。家から小学校までは近所の子たちと班を組んで集団で通うことになっていた。集合場所となる家があって、そこのおじさんから色んなことを教わった。一人で待っていると(ぼくはたいてい時間前にいた。これも今につながる習慣だ)、おじさんが出てきて木の枝を見せては「これは烏瓜だよ」とか、沢に手を入れては「ほらザリガニ」とか、ぼくの目に多くの「季節」を映してくれた。ザリガニは不気味で少し怖かったけど、烏瓜のあのオレンジ色の実は鮮やかに記憶に残っている。
小学生の朝は通学路とともにあった。ツツジが咲いていればよく蜜を吸い、栗が落ちていればトゲトゲを剥いてどうにか中身を食べようとしていた。そしておじさんが手品師のように動植物を取り出した。毎日が発見の朝だった。
中学生になると集団登校はもちろんなくなり、自転車に乗って学校に向かった。歩いて十分もしない距離なのだが、自転車での通学がちょっとオトナの気分にさせた。(かっこわるい白いヘルメットをかぶっていたが。)学校に着くと「朝練」が待っていた。野球部だったときは素振りやキャッチボールを、陸上部だったときは走り込みやランニングをした。楽しかったのは後者で、自由にメニューを考え、もう一人の後輩とグラウンドを走り回っていた。冬の朝は他に人もなく、大きくて広い校庭を二人で独占し風を切っているのが、なんとも気持ちが良かった。あの頃はまさに運動の朝だった。
高校生になるとそんな清々しい朝は一転し、「朝勉」という暗いものになった。高校は他の市にあり、自転車で数分の中学とは打って変わり、駅まで自転車で二十分、電車に揺られ三十分、駅からまた学校まで自転車で二十分と、一時間以上かけての通学となった。それで始業前に自主勉強を一時間程度していたのだから、起床時間は早くならざるをえない。午前5時くらいに起きて支度をしていた。冬など外は真っ暗で、着替えるときは寒くて寒くて凍え死にそうだった。実際に、家族に言わせれば当時のぼくは目が死んでいたという。でもそのときは気がつかなかった。受験という檻のなかにいると、勉強はしていても、思考を奪われる。三年間をいかに考えさせないようにうまく仕組むか。これが“良い”高校だ。今だったらこう言える。逃げろ、考えろ、学びは檻の外に広がっている、と。
しかしながら、ぼくはゲームが得意でゲームボード自体に疑いを持てぬ“真面目な受験生”だったため、朝勉も夜勉もこなし、休日は十時間は机に向かっていた。椅子にお尻が張りつき、椅子とともに倒れる「椅子人間」だった。いつだったか体調を崩してしまい、病院に行って診察を受けた。医者の先生いわく、「勉強のしすぎ」。医者に言われハッとなったが、それでも勉強はついに卒業するまで手放さなかった。この時代は言うまでもなく勉強の朝だった。
さて一応そこまで勉強したのだから受験は無事に合格し大学に入った。だが、ここが受験制度の問題点。おかしいが、入ってからすることがないのだ。偏差値と学びたいことは違う。ところが前者で生徒を追いたてる受験は、大学で居場所(目標)を見失ってしまう“大学難民”を次々と生み出していく。ぼくも入学してから一、二年は燃え尽きた難民となり、とにかくよく寝た。夜遅くに寝て、昼に起きた。人生から朝が消えた。今思えば「暗い朝」への反動だったのかもしれないが、精神的にも危ない時期だった。
おそらく、難民はここから二つの道にわかれる。一つは「夢よもう一度」ならぬ「受験よもう一度」と立ち上がり、やたら試験の成績にこだわったり、受験の次は就活と、また「対策としての勉強」を早々にはじめたりする。もう一つは、モラトリアムの道に入り、これまでの自分を一度解体し、もがき苦しみながら新しい自分の構築へ踏み出すことだ。ぼくは後者の道を歩んだ。大学ではなく名画座に毎日通ったり、せっかく受かった所属学部ではなく他学部に顔を出したりして、ふらふらと放浪していた。傍から見れば「ダメ学生」「落ちこぼれ」かもしれない。でも直感的に大学の時間を手段として使うことに抵抗があった。また受験勉強のように進めば、いつか本当に空っぽの人間になってしまう、そういう恐れだ。知に飢え内発性に突き動かされた人間が水を飲むように求めるもの。それが勉強であり、少なくとも大学での学びである。ぼくの留年を含めた大学五年間は、受験で損なわれた自発的な情動を取り戻すために必要な時間だった。書を捨てて、街へ出た先にあった、文化、芸術、そして人々の出会いが、ゆっくりとぼくの心を解きほぐしていった。
ボブ・ディランのアルバム『時代は変る』に《いつもの朝に》という曲がある。原題は“One Too Many Mornings”で、恋人との別れを歌ったものだが、ぼくも一度は自分を築き、しかし自分を見失わせた“あまりにも多くの朝”との決別を図った。
“静寂の夜も
ぼくの心の叫びで引き裂かれることだろう
だってぼくは果てしない道のりを旅してきて
また余計な朝を迎えてしまうのだから”
こうしてぼくは朝がない時代を送り、働いて、また別の朝を手に入れた。それは、童心と青春と暗闇と挫折を経て迎えた朝だ。出勤前の時間はこれといってなにもしていないが、多くの朝が通り過ぎた落ち着きがあり、あ、寝癖だ、なんて見つける朝は、微笑ましくもある。
夜は今の生があらわれて、朝は今までの生が自分を後押しする。手段、目的を離れ、そんな時が浮かび上がってきた。今日も自信を持って、堂々と通勤してやろうじゃありませんか。
コメントを残す