『ももクロ論―水着と棘のコントラディクション―』を読んで / 贈与と救済の星々
去年の秋頃だったろうか。清家先生がモノノフと化していったのは。あるとき、ゼミのOBが集うホームパーティで「ちょっとこれ見て」とiPadを開きももクロのライブ映像を見せてきた。周囲は興味深くのぞき込むも「まだ子供では…」と戸惑いを隠せなかった。先生は「ほら、ここ、ここ!」とえびぞりジャンプのすごさなど嬉々として語りながら、いつしかしゃべり疲れた子供のように眠ってしまった。残された者たちの会話の背後には、立てられたままのiPadから「ももいろクローバーZ」の音楽が鳴り響いていた。
またあるときは、勉強会の前に立ち寄ったカフェで、鞄から色とりどりのももクロ本を広げてみせてくれたこともあった。「読んでみて」と言われ、ぼくが目を丸くしてグラビアページをめくる傍ら、清家先生は自らの仕事に打ち込んでいる。そんな光景もあった。
思い返せばきりがないが、このようなことが積み重なり、清家先生に “iPadを携え出会う人々にももクロを見せて回るオトナ”という一面が加わっていった。それに応じて交わされるコミュニケーションにも「アイドルが持つ力」といった話題が入り混じるようになり、当時Twitterでやりとりした内容にはこんなものがある。
@清家先生へ
「資本主義が綻びを見せ、多くの人が実存を賭けてコミットせざるを得ない状況に置かれていますが、『参加』の先をまた奪われてはいけませんね。消費の主体から参加の主体へ。この主体を資本に組み込むか、外部に連れ出すか。」
@シカミミへ
「このまま退行現象で動物化して人間に戻れないところであった。」
おそらくこれが、清家竜介・桐原永叔著『ももクロ論―水着と棘のコントラディクション―』のあとがきに付されたこの言葉の背景だろう。
「この企画が持ち上がった頃、森田氏にももクロのライブ映像をYouTubeで見せると、にやにやしながら『参加のエネルギーが奪われるから見せないで下さい』という一言が返ってきた。その一言が、本書を執筆する上で重要なインスピレーションの源となった。」
清家先生(以下、清家氏)は本書で折口信夫の論を引きながら、芸能の祖を遊部の鎮魂(たまふり)と反閇(へんばい)の舞踊に求め(『古事記』の「天石屋戸」のエピソードで見られるアメノウズメの踊りが象徴的である)、現代のアイドルたちも鎮魂を司る芸能の神の文化的末裔ではないかとしたうえで、「現代の巫女ともいうべきアイドルの力は、実に危険なものでもある。それは、日々の抑圧によって生じる満たされない衝動を、抑圧を生み出す原因を迂回して発散してしまう傾向にあるからだ」と指摘している。ぼくの危惧していた「参加のエネルギーが奪われる事態」とはまさにこれだ。清家氏はももクロの「遊び、踊る身体」を分析するにとどまらず、この難しい問題にも目を向け挑んでいった。またそこにAKB48との差異も見いだされていく。
「アドルノに依拠するならば、日本に生じたアイドル消費は、大衆に〈娯楽〉を提供する文化商品の典型であるといえるだろう。日本のアイドル消費は、恋愛幻想という不易な要素によって、消費者に日常的な気休めを与えてきたが、決して抑圧的な歴史的・社会的現実を揺るがすものではない。」
しかし一方で、ベンヤミンの思想を汲み取れば、大衆芸術にも抑圧的な現実を変革するための潜在的かつ解放的なエネルギーが宿っていることは間違いないという。
「ベンヤミンは、オモチャやガラクタにも救済の契機を読み取ろうとした人物であった。(…)ガラクタで組み上げられたスターチャイルドたちの舞台は、抑圧から解放へと向かおうとするエネルギーを寄せ集める受容器のようだ。スターチャイルドたちの願いは、自らを拒絶する抑圧的な現実に対する“真の和解”である。」
偽りの止揚ではない、真の和解とは。ベンヤミンの「救済」とはこのようなものである。(ベンヤミン『認識批判序説』より引用。以下、『ももクロ論』からの引用は「」で、その他文献からの引用は“”で括る。)
“概念は、その媒介者としての役割をつうじて、現象を理念の存在に関わらせる。(…)理念による現象の救出がなしとげられると同時に、経験を手段とする理念の叙述がなしとげられる。というのも、理念はそれ自体においてではなく、もっぱら、概念のなかの具体的な諸要素の配置のうちにのみ、叙述されうるからである。しかも諸要素はそれを諸要素の布置(Konfiguration)としてなすのである。”
“ある理念の叙述に用立てられる一群の概念は、理念を、諸要素布置として現前させる。なぜなら、現象は理念のなかに組み込まれてはいないし、そこに包含されてはいないからだ。むしろ理念は、諸現象の客観的な潜在的配置であり、諸現象の客観的な解釈なのである。(…)理念の意義は、ひとつの比喩で叙述できるかも知れない。理念の事物に対する関係は、星座(Sternbilder)の星に対する関係に等しい。”
“理念は永遠の星座(Konstellation)であって、点としての諸要素がその星座のなかに捕えられることにより、現象は個別化されると同時に救出される。しかも、点としての諸要素を現象から分離することが、概念の課題なのだが、この諸要素は、極端なものにおいてこそ、もっとも明白に見て取れる。一度限りの極端なもの(Einmalig-Extreme)が同様の極端なものとともに作り出す関連性の形態が、理念であると言い換えられる。”
布置、星座、一度限りの極端なもの…。清家氏はこう述べる。
「ももクロは、ベンヤミンが描いた『屑拾い』のように、さまざまなサブカルの要素や言葉などを寄せ集めて、救済の理念に照らし合わせ、解放的な力へと転換しているかのようだ。その技芸は、犠牲者たちの山を築き上げることで勝ち誇るヘーゲル的な『勝者の弁証法』ではなく、救済されることのなかった敗者の記憶を現在へと召喚する『静止の弁証法』のようだ。」
「静止の弁証法」とはこうも言えるだろう。〈妹の力〉を駆使するクロの言霊は、歴史性がないというより、歴史に対してその都度、垂直に立つ。それは隠ぺいされてきた敗者の時間を「今」に出現させ、社会的閉塞状況を突破する兆し、ユートピアの光を垣間見させる。
片や「勝者の弁証法」で思い浮かぶはAKB48の選抜総選挙だ。「AKB48は、《犠牲のシステム》ともいうべき構造を持っている。その構造が露呈するのが『総選挙』だ。(…)総選挙という舞台を、濱野智史は『ゴルゴタの丘』に例えている。イエスに石を投げた人々のような『アンチ』に取り巻かれることになる総選挙は、少女たちにとって過酷な舞台だ。(…)権力構造を視覚的に象徴するピラミッドを模したひな壇は、AKBが《犠牲のシステム》であることを雄弁に物語っている。」
かつて前田敦子が「私のことは嫌いでも、AKBを嫌いにならないで下さい」と言ったことはよく知られている。清家氏はこの発言を磔刑に処されたイエス・キリストと二重写しに見るのではなく、冷静に、現実的に、「オタの感情を吸い上げる《犠牲のシステム》に対する過剰な同一化を見て取ってしまう」と述べ、「ももクロを嫌いになっても、私を嫌いにならないで下さい!」とパロディー化してみせた高城れにの言葉にAKB48との本質的な違いをみる。
「高城れにの言葉は、犠牲のシステムに囚われ神へと祭り上げられた前田を地上的な人間的生へと救済する批評的言語である。」
そう、超越した神になるのではなく、あくまで人間として地上にとどまり、思いっきり戯れてみせること。この振る舞いこそが〈妹の力〉を単なる“消費”や“殉死”から救い、この現実に変革をもたらすための重要な行為となってくるのではないか。清家氏はヘーゲルの『精神現象学』を参照し、芸能と宗教は接近したところにあり、双方ともネガティブな現実にとりまかれた意識から生じてくるが、その意識は〈不幸な意識〉の段階であるという。それは「自己意識」に目覚めながらも、自らが過酷な現世を変える力を持っていないと思い込んで、救いを彼岸の宗教的世界に求めてしまう段階だと説明する。
「この〈不幸な意識〉の持つ負の力が、何処に向かうかが問題だ。五次元への憧れという半ば宗教的意識が生み出されるのは、過酷な地上の世界を楽園へ変える力がないと思い込んでいるからだ。(…)この満たされぬ思いを鎮魂する芸術が『偶像崇拝としての宗教』へと向かうか、偶像を、笑いのもとに粉砕する『偶像破壊的な遊戯』へと向かうかが問題なのである。いわば、前田敦子がキリストになるのか、前田敦子を救済し人間に戻すかが問題なのだ。」
原発事故、TPP、改憲、日米安保、日米地位協定、増税、貧困、雇用問題…日本を取り巻く問題は枚挙にいとまがない。特に東日本大震災は日本人の穏やかな眠り(コクーン)を揺るがした。人々は自身の生にのしかかる抑圧的な現実を直視せざるを得ない。清家氏は本書でこれら社会問題に正面から切り込みながら、ももクロの“五次元”への志向は民衆の抑圧されたエネルギーが次のフェーズに向かっていることに共鳴していると語る。『5TH DIMENSION』は闘争を呼びかけることによって〈不幸な意識〉の閉域に穴を穿ち、新たな世界への突破口を見いだそうとしているのだと。
3.11後の日本人に課せられたテーマは「成熟」であり、それはまた、少女たちが用いる〈巫と妹の力〉が今後どうなっていくかという問題でもある。しかし清家氏はももクロたちが自らの芸能の力を使い果たしたとしても、彼女たちの意志を継ぐ者たちが、すなわち「星を継ぐ者たち」が現れてくるだろうとする。この視点を共有すれば、「星」は継がれていく「贈与」であり、星座のなかできらめく「救済」でもある。
以上が本書の第一部、清家氏が執筆する「ももクロ論」だが、もちろんこれが全体像ではない。ぼくの中心的な問いであった「参加のエネルギー」に対する清家氏の真摯な回答を抜粋し、ごく簡単にまとめたものに過ぎない。第一部の考察は社会哲学から音楽を含めた文化まで幅広く横断するものであり、ここで語り尽くせるものではない。ぜひ本書を手に取ってご覧いただきたい。
第二部の桐原永叔氏の論考も、ここでは自分の関心に沿って眺めていく。第一部の終わりの方で清家氏は「ももクロの哄笑に満ちたカーニヴァルの舞台は、抑圧的な現実から人々を解放するための、演劇的なレッスンではないだろうか」と問う。桐原氏はももクロのパフォーマンスに演劇論的とも見えるアプローチも用いて接近する。
「筆者(桐原氏)は歌詞よりも発声に注目することで、ももクロのパフォーマンスの魅力に肉薄していこうとしている。この場合の発声とは、歌唱技術的な、喉を開き、声を届ける技術としての発声ではなく、発話に近いものを指す。」
パフォーマーと観客とのあいだで反射し生成される意味作用を考えるとき、ライブ・パフォーマンスでは言葉の意味を多様に発散させるための発話と、その発声に適した歌詞が求められるとし、ももクロの楽曲はまさにさまざまな発生を行わせることを目的として制作されているのがわかるという。(例として、笑い声、叫び、咳、セリフ、挑発、早口言葉、悲鳴、うなり声、点呼、号令、シュプレヒコール、オノマトペなど多数あげられている。)
これらの響きは人の生理に訴えてくるものであり、他者性を強力に発揮し、コミュニケーションを開いてゆく。
「ライブにおいて一瞬たりとも停滞することなく、つねに多様で即興的な意味を生成しつづける発声が、ロシアの著述家、ミハイル・バフチンが論述した『ダイアローグ(対話)』だとすれば、パフォーマーの自意識は、ノイズとなりダイアローグを阻害するものだろう。」
「バフチンのいうダイアローグとは、一対一の対話が絶え間なく継続し意味や関係をどんどん更新していく状態である。そして、ダイアローグは他者性を、他者の裡にも、自己の裡にも呼び起こすものだ。」
たとえば、ももクロの激しい振り付けは、身体にかけられる過酷な負荷によって自意識を後退させ、観客とよりプリミティブなダイアローグに向かわせる演出の一つだとみる。そのダイアローグがパフォーマーや観客の内外に響き渡る状態をバフチンは「ポリフォニー」という。彼女たちの楽曲を受容する観客は自己の文脈からさまざまに意味を生成させ(ハードロックファンならハードロックの文脈、プロレス好きならプロレスの文脈、アイドルオタクならアイドルの文脈を呼び起こす)、多様で乱雑な意味作用を生む。
「この方向性の安定しないダイアローグの無数の反響は、会場に、ポリフォニーな空間を生み出す。バフチンがダイアローグを光の屈折で比喩したことに倣えば、無数のダイアローグの光が犇めきあいながら、星座が空を埋めるように空間を満たしていく。それはサイリュウムの光が覆う、彼女たちのライブ会場そのものの姿だ。」
パフォーマンスにおける「ダイアローグ」や「ポリフォニー」という考えを進め、身体の即興に触れながら、論考はさらに「演じること」と「生きること」に焦点を当ててゆく。少し長いが引用しよう。
「近代以降の演技論の古典中の古典ともいえるスタニスラフスキー・システムは、術語として、『超課題』『主要行動』『一貫行動』といった演技者の心理を構成する要素を分化していった。そのなかで役の行動のゴール設定、それに対する最大の抑圧と、ゴールへのプロセスにおける行動の指針、あるいはルールづけなどが整理される。役の行動の流れのなかに、矛盾が生じることは、演技者の内面を生成するうえで大きな障害となるため、整合された流れのことを『役者の生理に適う』と言ったりする。なぜならば、生理に適ってさえいれば、役者は感情を捏造したり、自意識と格闘したりすることなく、役を“生きる”ことが可能になると考えられるからだ。」
自意識を退け、生理に適った動作のなかで、役を生きること。桐原氏はこれが与えられた役(キャラクター)を“演じる”ことと、その場で役を“生きる”ことの決定的な違いだという。前者はAKB48の身体、後者はももクロの身体ともいえよう。
またここから、ももクロを「いかに生きさせるか」といった演出が編み出されていく。ももクロには秋元康や中田ヤスタカのようなプロデューサーはなく、さまざまなスタッフに囲まれてはいるが中心はないとする。ももクロはイデオローグとしてのプロデューサーが不在だからこそ、表現におけるダイアローグが豊かになり、逆に、AKBはイデオローグとしての秋元がその表現をモノローグ的にしているという。
これにぼくは演出家の鈴木忠志の言葉を突きあわせたいと思う。
“舞台づくりとは、劇作家の戯曲を上演することではなく、表現の動機とか表現の契機を戯曲からもらい、何月何日何時何分に、何某演出何某演技の騙りの空間を成立させることであって、観客は戯曲を見に行くのではなく、その空間を生きに行くということになります。”(『越境する力』より。)
ももクロは劇作家(イデオローグ)の傀儡ではなく、状況設定から表現の契機を得て、その場その場でダイアローグの空間を生み出していく。これは役を“生きる”ことと言えるが、それは観客も“生きさせる”ことに繋がっている。会場に無数のポリフォニーが生じるとは、観客が「見に行く」という受動的な姿勢になるのではなく、ももクロと同じように「空間を生きに行く」と言い換えられるかもしれない。
本書に戻ろう。スタニスラフスキーの方法は現代演劇では必ずしも評価されるものではないとしたうえで、現代でも役者の内面=自意識をどう処理するかは相変わらず問題であると、今度は平田オリザの演出論を引き合いに出してくる。
「演出家、平田オリザは、『役者に内面は必要ない』、『演出は化学や物理の実験に似ている』などとして、一見して過激な演出論を語る。与えられた役(キャラクター)を演じようとすることが、単に俳優の自意識を強化してしまいがちなのに対して、その役(キャラクター)にならざるを得ないような環境や精密な動作を構築してしまえば、ノイズとなる自意識が取り除かれて身体は生々しく観客へ届けられるというのが平田の考えだ。」
ここまでくれば、桐原氏のいう「自意識」と清家氏のいう〈不幸な意識〉とが似た概念であることがうかがえる。ももクロのキャラクターがアイドル像に対して批評的な距離を置いている(自らの裡の他者として意識している)のに対し、AKBにおけるキャラクターはもっと彼女らの実存にくい込んでいる。
「ももクロのキャラクターが浮遊的で境界線が曖昧で、なおかつ批評的なものであるのに対し、AKBの場合は役割の明確なキャラクターがつくられている。なぜならば、AKBにおけるキャラクターは、ファンコミュニティから生まれてきたものに依拠し歴史(物語)を背負っているからだ。そのため、AKBのメンバーには、自らに与えられたキャラクターを演じることは行動の目的となる。」
ここで再度、「私のことが嫌いな方もAKBのことは嫌いにならないでください」という前田敦子の例のセリフに注目が行く。桐原氏はそこに「強い演技性」を感じ、キャラクターを演じている本人が自意識につかまって、本当にそのキャラクターと同一であるかのように錯覚している危うさを見いだす。本人には演じているつもりはなくても、いや、ないからこそこの〈不幸な意識〉が際立ってくる。この構造は清家氏のみた《犠牲のシステム》とも通じている。
「個を犠牲にするという姿勢は、共同体を護持する機能を持っていることは言を俟たない。(…)個が与えられたキャラクターを通して、システムの一部になること、それゆえに豊かな即興性を生ずるはずの身体が背景化していくというAKBに見られる構造は、観客に予測不能の一回性を見せる瞬間を奪ってしまう。ベンヤミンの言葉に倣えば『展示的価値』を鑑賞されているに等しいものにしてしまう。」
AKBが恣意性に基づいてキャラクターを演じていることに着眼すると「再現でも模倣でもない一回限りの即興性によってステージに生きているのが、ももクロだとすれば、それがもっとも大きなAKBとの違いと考えられるのではないか」という桐原氏の言葉が導かれる。そして、ももクロを形容するときによく使われる「全力」や「健気」といったものは、「自意識が語ろうとする物語を放棄した瞬間=生きた一瞬から得た感動に対する言葉ではないか」と展開されてゆく。
“巫女”たちが「自意識」〈不幸な意識〉から脱した先にある地平には、ステージと観客席の区別が無意味になり会場全体がトランスした「カーニヴァル的空間」が切り開かれる。桐原氏はバフチンの説くカーニヴァル論を引用する。
「それ(カーニヴァル的本質)は芸術と生活自体の境目に位置している。(…)実際、カーニヴァルは演技者と観客の区別はない。〈中略〉カーニヴァルは観るものではなく、そのなかで生きるものである。万人がカーニヴァルのなかで生きる。というのも、これはその理念からすれば、全民衆的なものだからだ。カーニヴァルがおこなわれているあいだは、誰にとってもカーニヴァル以外の生活は存在しない。」(太字は原文による。)
「観る者」と「観られる者」とが混在する空間。ここでまた鈴木忠志の言葉を思い起こす。
“どこからどこまでが日常で、どこからが非日常かなどという区別がことさらな意味をもたないような時間、日常といえばすべてが日常であり、非日常といえば、そうよんでもいい時間、そういう得体のしれない時間が流れる場所をつくりだすこと、これは演劇の理想とするところだろう。”(『越境する力』より)
桐原氏が演劇論的なアプローチで見せた「ももクロの舞台」は、このように“演劇の理想”と言っていいのかもしれない。つづけて桐原氏は、カーニヴァルで繰り広げられる大道芸人、怪力男、音楽、踊り、曲芸(アクロバット)といった諸要素が、笑いと遊びのなかに回収されていくさまをももクロのライブとの共通点として挙げている。それが意味するものとはなんだろうか。
「バフチンは、カーニヴァルの重要な要素としてさらに、かつての民衆喜劇や見世物小屋(やサーカス)にあった、躍動する身体の『跳躍と落下』を挙げる。跳躍と落下は、物理的なジャンプや転倒だけを意味しない。それは、頭が尻の位置に、尻が頭の位置に向かうことによって『裏返し、あべこべ、ひっくり返し』を表す。これは観る者と観られる者の転換であり、常識と非常識の価値の転換さえも暗示する。」
ここでぼくは思う。ももクロとは、かつて寺山修司が掲げた「見世物の復権」を現代で体現するものではないかと。寺山は60年代後半に「怪優奇優侏儒巨人美少女等募集」と呼びかけ、実験演劇室「天井桟敷」を立ち上げた。その初期の舞台はまさしくカーニヴァル的であり、日常的価値の転倒、転覆を図っていた。寺山はこのように言う。
“演劇は社会科学を挑発し、日常の現実へ疑問符をさしはさんだ。贈与をめぐる、様々な仮説を通して、明日への賭けがなされた。演劇実験室「天井桟敷」の軌跡は、新劇という一ジャンルへの無の贈与をくりかえしてきたのではない。あくまでも、呪術的な媒介を通して「社会転覆」をめざしたのである。”
清家氏、桐原氏の両氏がそれぞれの論考で持ち出しているように、現実に意味を与える〈反現実〉(見田宗介は45年から60年を「理想」、60年から75年を「夢」、75年から95年を「虚構」の時代と位置づけ、大澤真幸はそれらを「理想」と「虚構」の二つに分類し、「虚構」の次に来るものを「不可能性」の時代とした)を捉えれば、寺山の「見世物の復権」は「夢」あるいは「理想」の時代に突きつけられた挑発であった。それは社会的には政治的に《二重の繭》に守られながら経済的繁栄を謳歌する日本人への疑問符であり、演劇的にはそれこそ「自意識」〈不幸な意識〉にからめとられている新劇への批判であった。(この意味で、AKB48は“新劇的=再現する劇”、ももクロは“アングラ的=生成する劇”と言えるかもしれない。なお、“アングラ的”とは新劇が否定した“歌舞伎”などに親和性が高く、確かに見世物的な世界観を帯びている。)
ももクロは〈反現実〉の準拠点となる《第三の審級》が不在の状態である「不可能性の時代」に、「極端な虚構化」にも「現実への逃避」にも陥るのでなく、人々の生を恢復させる舞台を、つまり現代における「見世物の復権」(およびその可能性)を指し示しているのではないだろうか。桐原氏の演劇論的なアプローチに寄せて提起してみたい。
以上、二部の桐原氏の論考も駆け足で読んできた。繰り返しになるが、第一部と同様に、自分の問題意識と特に呼応した箇所に沿ってまとめている。ここで触れていなくとも魅力的な考察は多々あった。(ロックを中心とする音楽方面からのアプローチはあえて省いてきたが本書の重要な柱の一つである。)逆にいえば、この『ももクロ論』は各々の関心から入り込めるものであり、一つのジャンルに収めることのできない豊かさに満ちている。清家氏と桐原氏の論考自体がベンヤミンのいう「星座」の形態をなしており、それぞれの概念がそれぞれの概念を補強し、「救済」の可能性をきら星のごとく明かしている。ももクロの「星」が、継がれていく「贈与」であり、星座のなかできらめく「救済」であるならば、本書の描かれ方もまた同じような輝きを宿している。ぜひその光を直に見ていただきたい。
森田“シカミミ”悠介
清家竜介・桐原永叔著『ももクロ論―水着と棘のコントラディクション―』
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