第11回別冊スクラップブック『モダーンミュージック/PSF Recordsを知る』
工藤礼子『夜の稲』が良かった、良かった、と言っていたら、菩提寺医師が「モダーンミュージック」に赴き、そのレーベルである「PSF Records」のCDその他を買ってきてくれた。
まず「モダーンミュージック」とはなんだろう。サイトを見ると「日本一アンダーグラウンドなミュージックショップ」と書かれている。 http://www.psfmm.com/
思わず首をすくめてしまう。芝居では“アングラ”は大好きだが、音楽となると右も左もわからずただ緊張するばかり。どこから入っていいのか迷っていたが、アングラをギュッと詰めたような場所があったのだ。菩提寺医師からは小西康陽と坂本慎太郎の対談“音楽のはなし”にも話題に出ていると言われたので、閲覧してみる。
坂本:明大前にモダーンミュージックというレコード屋さんがあって、当時はあそこの店の周辺の人たちと一緒にやったりしてましたね。レコード好きの中でも、とんでもないサイケとかジャーマンロックとかを掘り下げている人たちが属しているシーンみたいなのがありまして、そういう、いわゆる雑誌やメディアには取り上げられないところにいました。
小西さんが「モダーンミュージックは僕も行ってましたよ」と答えると、坂本さんは「え、本当ですか?」と驚きをみせる。
坂本:この歳になって、長くやってるミュージシャンの人と話してたりすると、20歳くらいの時にモダーンミュージックに通ってたって言う人がけっこういたりするんですよ。それが全然違うジャンルの人だったりするから面白いですね。
「アヴァンギャルドな方向に興味を持つと必ず行くっていうような店」だったらしく、菩提寺医師も開店当初から顔を出していたという。今回そんな場所から届けられた数枚のCDを紹介したい。
一枚目は工藤礼子 / 工藤冬里『これから』。ライブ音源を収録したアルバムだ。
『夜の稲』を聴いた感動がよみがえる。冬里さんの弾くピアノに礼子さんのヴォーカルが優しく、繊細に、揺らめくように重なっていく。それはただ心を安らかにさせる音ではなく、ピアノを叩く音が入っていたり、絶妙なタイミングで不協和音が混じっていたりと、緊張の上に成り立つ輝きがまばゆい。そこで礼子さんの詩は、不安要素があるがゆえにむしろ引き立つ“生命の力”を誘うように響いていた。一通り聴き終えたあとにジャケットを開くと、あ、このイメージだと、ほっこり。
二枚目は『塵をなめる』。(これも工藤夫婦によるアルバムだが、PSFレコードではない。灰野敬二さんも参加している。)
ボーナスCD-Rも付いていた!この手づくり感がいい。
そして、とても嬉しいことに、菩提寺医師は工藤礼子さんを特集した雑誌(『G-Modern』28号)も手に入れてきてくれた。
ここには礼子さんに対するいくつもの質問とその返答が載せられているが、ひとつ、ここに引用したい。
【質問5】工藤冬里さんと出会われたことで、礼子さんの音楽観に変化は起こりましたか。
――そういうことは考えてみたことがなかったですが、音楽がどういうものかという考えをその人の音楽観というのであれば自分の音楽観は変化しました、が、人の影響によって変化したものではありません。それはたぶん冬里さんにとっても同じではないかと思います。そして音楽は音楽観を超えていきます。それは夕日の美しさを言葉で言い表せないのと同じだと思います。
このインタビューの冒頭にはその印象をより深めるようなドビュッシーの文章が引かれている。
――たとえばです、日没という、あのうっとりするような日々の魔法を前にして、喝采しようという気をおこされたことが、あなたには一度だってありますか?――
『ドビュッシー音楽論集』
この一文は、ぼくが工藤礼子 / 冬里さんのつくる音楽に抱く心情を物語っている気がした。大げさな言葉はいらない。ぼくはただ「夕日」を前にした魔法にかけられている。
アバンギャルド。言葉にならないのは難解だから、というより、それが美しい夕日のようなものだから、という見方もあるのかもしれない。
最後に、三枚目。こちらは光世さんからのプレゼントとして樋口寿人『初期作品集』をいただいた。(ありがとうございます!)
ジャケットに一目惚れ。見開いたときの絵にも心惹かれる。聴き手の実存に向かい、すでにここから音楽が流れているようだ。
以上、「モダーンミュージック」で購入してもらった品々を紹介してきたが、その店主であり、「PSF Records」も「G-Modern」も手掛ける生悦住さんは前掲の雑誌でこのように語る。
素晴らしい音楽は少しずつ浸透して拡がっていくなどと幻想を持っていた自分が甘かった、そんなことは所詮無理なんだと、諦めに似た心境になっていたのだった。
私のその諦めに似た心境は去年(※2007年)の後半から大分変わってきて、素晴らしい音楽はそれほど拡がることは無く、逆に数としては少ないが、本物の音楽を聴き続ける人達の「心」に刻み込まれていけばそれで良いのではないかと。(※は引用者による。)
生涯をかけて音楽を聴き続けることは並大抵の事ではない。故・高柳昌行が言っていたことだが、覚悟を持って音楽と対峙することが絶対に必要なのだろう。まして、私のようにコマーシャリズムの無いアンダーグラウンド・ミュージック(素晴らしい本物の音楽)や、魂を感じる「歌」、しか聴けない人間にとっては。
ここに一人、「モダーンミュージック」の取り扱う音楽に心揺さぶられ、その体験をもう一度と、音楽と対峙し始めようとしている若者がいると伝えたい。スクラップブック『ロックミュージック考2』で述べたように、ぼくは音楽の変容と一緒になって自分を変化させていくこと、それを望んでいる。つまり日々新しい世界のもとで朝を迎えたいし、できるなら、絶えず違った生き方の可能性を模索しつづけたい。“コマーシャリズムの無いアンダーグラウンド・ミュージック”は確かにマイナーと言えるだろう。しかし人生は、既存のレールを登りつめていくメジャーな変化より(それは結局、生を“大きな”紋切型に押し込めるに過ぎない)、マイナーへの生成を遂げていく過程に一度きりの生を受けた「この私」を構築しうる鍵があるのだと思う。「モダーンミュージック」は、一人一人の固有な「心」の鍵を受け入れる一つの扉だと感じられた。
音楽でもなんでも、“覚悟”なくして「本物」は得られない。突き詰めればそれは人生そのもののことだろう。今度は恐れずに、自分の足で明大前まで向かってみよう。
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