『就職しないで生きるには、就職しても生きるには』(覚え書き)
「(本の舞台裏)30年後の新シリーズ」という記事を見つけた。 http://t.asahi.com/bzyo
晶文社から「就職しないで生きるには21」シリーズの刊行が始まった。…同社は80年代前半、「就職しないで生きるには」シリーズを出していた。
敬愛する植草甚一の「スクラップ・ブック」を抱える晶文社からの新シリーズ。80年代の「就職しないで…」には早川義夫さんの『ぼくは本屋のおやじさん』などがあり、いま読み返してみても面白い。(ぼくは古物商許可証を持っているので、古本屋は開こうと思えば開ける。)
ぼくは今のところ「就活」しないで「就労」している状態。そして生きるためのエッセイを紡いでいる。これも「脱就活」の一つのあり方だ。
「就職しないで生きるには」とはとても魅力的に響くが、おそらく運や人格によるところが大きいだろう。むしろ今求められている言葉は「就職しても生きるには」ではないか。(精神科のクリニックで働き社会と向き合っているとなおさら強く感じられる。)「平和と繁栄」から「戦争と衰退」の時代へと移りゆく現代において、就職しても生を楽しめ、より善く生を全うするには。――ぼくがエッセイで残したいのは、そんな「生の形式」である。
もちろん「就職しないで生きるには」と「就職しても生きるには」の二つの試みが同時に可視化されていけばいいと思う。そしてぼくは「就活しないで生きるには」という真ん中の道を歩んでいるので、どちらも視野に収めている。エッセイでは両者の言葉を半々ずつ持った者としての想像力を繰り広げていきたい。
「言葉」とは生命を維持するための労働過程の外部を照らすものだと言える。それは「実存」と深くかかわる。人間が生きるためには「労働」が必要だが、“この私”がなぜ生きているのか、どう生きようとしているのかを説明し支えるのは「言葉」。生命は言葉に先行するが、言葉は生命に形を与える。
「言葉」を通じ「実存」を育む。
「生命」を「人生」に変える。
その過程を“ビルドゥングスロマン”として可視化することで共有可能な「生の形式」を重ねていく。
これが前からのぼくの姿勢であり、エッセイという場で挑戦していることだ。
『生の形式としてのエッセイ』
https://shikamimi.com/notes/1737
まとめるとエッセイには、
1.枠にとらわれない自由な思考の営み(理論)
2.共有できる生の形式(実践)
3.生命を人生として構築する作業(物語)の側面がある。
おもに1は『スクラップブック』、2は『別冊スクラップブック』、3は『シカミミの絵日記』の文体となっているが、理論×実践×物語の三つが良い具合に組み合わさる“サウンド”を模索しているところです。
【都庁前クリニック連載 スクラップブック】…理論
http://www.tochomae.jp/scrap/
【別冊スクラップブック】…実践
https://shikamimi.com/notes/scrap2
【シカミミの絵日記】…物語
https://shikamimi.com/notes/enikki
ぼくだけでなく、生の多様性と固有性を示すエッセイがどんどん出てくればいいなと思います。各々が自分の“生きるには”シリーズを作ってしまおう!
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