映画『おだやかな日常』レビュー&考察 ――「防衛社会」に対する「自衛女性」たちの闘い――
3.11東日本大震災は「平和と繁栄」を無自覚に謳歌する日本人に巨大な疑問を投げつけた。私たちは数多くの活断層の上に生きていること、その強烈なリアリティにとって経済や社会制度はみんなが信じることによって動くに過ぎない神話ではないかということ。原子力発電所など、私たちが生きる即物的な現実を忘却した上に立つ最たる建造物であり、どんなに口実をつけようとも最も深刻なレベルの事故を起こしたという事実は、象徴的にこの社会の虚構=神話性を明らかにした。そして、そこで浮かび上がった生身の現実をすくい取るように、いくつもの被災地のドキュメンタリーや震災をテーマにした映画が作られていった。
しかし、大地の裂け目から見えたのは、突然の不幸に見舞われた日本人の悲劇だけであろうか。むしろ、恒常的に働いている日本社会そのものの本質が露呈したのではないか。映画人は津波に押し流された町の表情だけでなく、リアリティを突きつけられたときに取った日本人の反応にもカメラを向けるべきはないか。内田伸輝監督『おだやかな日常』(2012)はそのような意志がにじみ出るかのように、原発事故そのものではなく、それに対する日本人の反応をつぶさに描いている。
その姿勢は舞台を原発事故の起きた福島ではなく、東京近郊に設定したことからもうかがえる。果たしてここまで放射能は来るのか、来ないのか。食品は安全なのか、やはり危ないのか。政府発表の情報は本当なのか、それとも何か隠しているのか。福島から少し離れた関東の地で展開された物語とはこのようなものである。何が正しくて何が間違っているかはわからない、しかし何かが切迫していることは確かな状況で試されるのは、一言でいえば人間としてのあり方だ。
そう、この映画が巧みに描写するのは、見えない放射能の存在に揺るがされる共同体の「関係性」や、それに立ち向かう夫婦や母娘に訪れる「受難」である。それを示す重要な場となっているのが幼稚園を中心としたママさんコミュニティだ。園児の幼い娘を持つサエコ(杉野希妃)は、自分でネットなど使って調べた放射能への恐怖と不安から、外出時には親子でマスクをつけるようになる。また放射線量を測定するガイガーカウンターを独自に入手し、娘の通う幼稚園の庭を自主的に計りにいく。このような行動が「おだやかな日常」を願う他のママたちを刺激し、「不安を煽るからやめてくれ」「自分だけよければいいの?」と咎められるようになってしまう。やがてその対立は「そんなに心配なら家から出てくるな」「どうせ働いていないんでしょ」などと人格攻撃に移り、挙句の果てにはサエコの家に無言電話をかけたり、郵便受けにゴミを詰め込んだりとイジメに発展していく。職務的に子供を守るはずの保育士さんも、官庁からの指示がない限り園として放射線量を測定することや、給食の食材を検査することなどはできないのだと伝え、逆にサエコを諭す側に回ってしまう。追いつめられたサエコは、突然に鼻血を出した娘をみてショックを受け、動揺のさなか子供とともに心中を図ってしまう……。
このコミュニティ内における「排除」と「攻撃」こそが震災と原発事故で表面化した一つの現実である。すなわち日本の「おだやかな日常」とは、「語らないことによって保たれる共同性」であり、それは危機時には脆くも崩れ去るばかりか、語ろうとする他者を排除し人格への攻撃をみせる。そして誰もが沈黙した結果が、「おだやかな日常」となる。もちろんこの物語自体はフィクションだが、一つ一つのエピソードは実際にヒアリングなどを通して得たことで構成されているという。そのため、少なくとも「そんなことはあるはずがない」で済まされる問題ではないのだ。
興味深いのは、サエコを攻撃する側も「子供を守りたい」と頑なに主張していることだ。サエコが娘を守りたいことを強調すればするほど、「じゃあ私たちが子供を大事にしてないとでも言うの!」と畳みかけられてしまう。そしてこのやり取りで注目すべきは、「放射線量を計るのも勝手なら、それを非難する(不安になるから止めてくれと言うこと)のも勝手でしょ!」と最終的にはそれぞれの「勝手」と「勝手」がぶつかり合う構図に陥ることだ。
だが、サエコの「勝手」は誰かを非難したり攻撃したりする上にある「勝手」ではない。実に非対称な「勝手VS勝手」だ。またそもそも、サエコをいじめる側が掲げる「守る」とは、一体なにを守っているのだろうか。彼女たちは一様に「子供を守りたいからこそ、不安を煽るな」と言う。これはまったく論理的ではない。不安を煽らないことが、どう健康的に子供を守ることに繋がるのか俄かには理解できない。では本当に安全であることを信じているのかといえばそうではない。それを裏付けるシーンが映画にはしっかりと描かれている。サエコをいちばん激しくののしる幼稚園ママの典子(渡辺真起子)は、スーパーでの買い物の際、「あれ、外国産の魚少なくなったねえ」とパートで働いている友人の洋子(西山真来)に話しかける。このスーパー、「日本を応援するため」に健康上のリスクを度外視して日本産の食材のみを置くようになったのだ。そう聞く典子は、やはり放射能汚染のことを頭の片隅では考えている。また典子の夫は電力会社関係に勤めていることが示唆されているのだが、その夫から電話を受けとったとき、典子は激しく怒りを露わにする。聞けば「急に海外に出張になったの」とそっけなく答えるが、これはその様子からしてフクシマに赴くことになったことが容易に想像つく。
つまり、典子は決して原発の現状とそれにともなう危険性を認識していないわけではない。むしろ、耐えられないほどに知っているからこそ、現実を否定したいのだ。典子をリーダーとするママさん仲間は、つまるところ「自分の世界を守りたい」のであり(あるいは「リアリティではなく虚構を見つめたい」と言ってもいい)、それに疑問を差し込む刺激に対して「防衛反応」をみせている。いわば過剰な自己愛が他者への攻撃性に転じるようなものである。そういう意味で、確かに典子たちは「守っている」。他者をはねつけるものすごい「防衛」で。「自分だけよければいいの?」という言葉は、まさに自分たちが抱いている願望をサエコに投影していることを表している。
一方、それに対しサエコが守り抜く姿勢とは、把握した事態に対し文字通り自分と子供を守るような行動に出ることを指すのであり、これを「防衛」とは区別するために「自衛」(自らで守る)と便宜的に名づけよう。
この映画での鍵である「守るVS守る」(勝手VS勝手)の構図は、こうして「防衛VS自衛」のこととして置き換えられる。またこれは、典子とその仲間一人ひとりの「防衛」の話のみならず、社会全体が現行の神話=虚構=システムをどうにか維持しようと「防衛」に動いている問題であり、『おだやかな日常』は日本の「管理的な防衛社会」に対抗する「主体的に自衛する女性たち」の物語として読み解くことができる。
しかし、「自衛」するためにあらゆる日本の外圧と闘っていく道は厳しい。前述したように、サエコは夫と別れたこともあいまって、最後にはなすすべもなく心中という最悪の選択をしてしまった。これでは自己愛的な防衛ママたちを批判できない。そのサエコと娘の命を文字通り救ったのは隣人のユカコ(篠原友希子)だった。隣部屋から漂うガスの臭いに気づき、窓を破って侵入し倒れた彼女らを抱え出る。ユカコもまた、「自衛」する女性として、町のなかで孤立奮闘していた。サエコたちの通うあの幼稚園に「子供にマスクをさせてあげて下さい!」とマスクを配りに園内に足を踏み入れ、警察沙汰にもなった。そんな二人が出会うことにより、物語は共闘の形をとり、それぞれの生活が新しい幕を開けるようになる。
物語を救った二人の女性の出会い。強固な防衛社会においては自衛する者たちの連帯が求められる。サエコとユカコは同じ町に住み、しかも隣で暮らしていながらも、心中未遂の事件がなければ繋がることはなかった。ここに、町のコミュニティが失われ個人が砂粒化して生きている現代社会の問題点がある。角田真一がカメラで映し出す住宅街は、灰色がかった無機的な色彩を放っており、街づくりに失敗してきた日本社会の弊害をうまく表現している。私たちはまずこれを乗り越え、一人ではないことを知らせる関係性を自衛者たちの間に築いていかなくてはならない。
ここから学ぶべきことは、当の原発問題はもちろんのこと、同じようなコミュニケーションの失敗を繰り返さないことである。震災や危機はまた必ずやってくる。そのとき、自衛に立ち上がる人々が防衛の暴力に巻き込まれることはもうあってはならない。しかし私たちは忘却する。この映画を観た人の感想に「リアリティがあり、震災と原発事故当時の状況をありありと思い出した。でもそれは今まで忘れていたことだと気づき、なおさら驚いた」というものがあった。3.11から二年も経たずに、コンビニやスーパーから水や食料が消え、停電に脅かされていた日々はすでに思い出のなかにあり、政治においては原発を作ってきた政党が圧倒的支持で政権に返り咲いた。いま、日本では何事もなかったかのように「おだやかな日常」が続いている。
この日本の「防衛」と「忘却」の習性は長く染みついてきたものなので、それ自体をすぐに変えることは難しいだろう。「次のその時」までに私たちができることは、自衛しようと思ったときに、すぐに仲間とともに連帯できる繋がりを見つけておくことだ。つまり、サエコとユカコがもっと早く出会えるような社会を築くことである。そのために、この映画は役に立つ。本作品を観て、語り合えばいい。「原発についてどう思う?」など日常で突然切り出すことは容易ではない。だが、映画を観て、その物語について話し合うという方法をとれば、人は意見を表明しやすくなる。「サエコやユカコに共感した」といったコメントがあれば、自衛したいと考える人は仲間にしよう。「自分はユカコに共鳴していった夫のタツヤ(山本剛史)や、風邪と偽りマスクをし始めた洋子の立ち位置かもしれない」という人には、まさにゆっくりと対話を重ねていこう。このように映画を通して互いの意見を知り、地道に共同性をすり合わせてゆく。ここに「おだやかな日常」の沈黙を突き破るきっかけがあるのだと思う。
なお、本作品でプロデューサー兼女優を務めた杉野希妃さんが2011年に同じく手掛けた深田晃司監督『歓待』も、タイトルが示す通り「他者」の「歓待」をテーマにしている。『おだやかな日常』といい、奇しくも日本社会の「共同性」を考察する物語が続けて展開されていることに偶然ではない制作者の意図を感じる。ぜひ、『歓待』も合わせて鑑賞されたい。
森田悠介(シカミミ)
※映画を観て/語り合うことの一つの実践として
・『おだやかな日常』学生試写&UST討論会 https://shikamimi.com/works/1050
・ユカコを演じた女優の篠原友希子さんとのトークショーも行いました。(2/6、アップリンクにて)
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