引用日記まとめ18(幸福について)

201010/08

用日記のテーマ「幸福」2010年10月8日

 

引用日記、今週のテーマは「幸福」。先日観に行った学生演劇では、自ら進んで不幸になり自分の存在意義を確かめようとする女性が描かれていた。なにもない平穏な人生ほど「不幸」なものはないというわけだ。存在の軽さを不幸という重しで地に引きとめる。少なくともこういう幸福は間違っていると思う。

 

それで思うのは「偶然性」と「幸福」の密接な関係性。happenとhappinessの“hap”は“偶然”という意味で、偶然に「起こる」ことが「幸福」となる、そんなふうに解釈できる。となれば、偶然性をうまく引き寄せられる人間ほど幸福である、と言うことができるのではないか。

 

たとえ幸福の定義を「快/不快の総量」という味気ないものにしたとしても、その快を増やすにはどうすればよいかを考えることはおもしろい。明らかに、出会い=偶然性に敏感である人のほうが、つまり幸福センサーが発達している人のほうが、幸せ度は高いだろう。

 

一日のうちで起こる、ちょっとした出来事に、どれだけの興味をもって接することができるか。ささいなことの中に、どれだけのおもしろさを発見することができるか。人は見たいものしか目に入らない。幸福を思う人には快いことが、愚痴言う人には不快なことがよく目につくことになる。

 

「幸福とは偶然性をうまく引き寄せることだ」といったが、ギリシア語で「幸福」はエウダイモニアという。それは「よきダイモンに守られていること」を意味する。ダイモンとは神的存在で、個人の運命を導く霊のようなもの。ソクラテスがダイモンの声を聞いていたことは有名だ。

 

偶然性の波にうまく乗れるひとは、まるで啓示に従って生きているようにみえるが、それは自分のダイモンにつき従う姿だともいえるだろう。偶然性(共時性)とは無意識の顕れだった。つまり、ダイモンとは無意識の領域に住んでいる神ではないか。フロイトもシュルレアリストもその神をとらえようと格闘していた。

 

つまり、良きダイモンに守られる(=幸福)には、無意識の声をよく聞けるかどうかにかかっている。繰り返すが、その声をよく聞くには、1.アバウトなプラン、2.我のない謙虚なスタンス、3.しなやかな想像力、が必要になる。ダイモンは技術によって仲良くなれるというわけだが、技術がないと手綱を外された馬のごとく、ダイモンはデーモン(悪魔)の表情を見せる。

 

ここまで幸福を偶然性と結びつけて考えてきたが、最後に、それを他者との関係で捉えてみたい。ラッセル『幸福論』(岩波文庫)より引用する。

 

「幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である。また、こういう興味と愛情を通して、そして今度は、それゆえに自分がほかの多くの人びとの興味と愛情の対象にされるという事実を通して、幸福をしかとつかみとる人である。」

 

ここには、自由と愛の互酬の原理がある。「贈る‐贈る」の関係性にいることが「幸福」になる秘訣だとラッセルはいう。

 

「愛情の受け手になることは、幸福の強い原因である。しかし、愛情を要求する人は、愛情が与えられる人ではない。愛情を受ける人は、大まかに言えば、愛情を与える人でもある。

 

幸福に「贈与」がかかわってくると、それは他者との関係性なしには語りえなくなる。「幸福を求める」のは一人でもできるだろう。しかし「幸福が与えられる」には、自分が与えたものが他者を経由して戻ってくるという環の中に身をおく必要がある。そのために他者がいる外界へと、人は足を踏み出さなければならない。

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