第37回「映画甲子園」をのぞいてみて

201712/26

 

映画甲子園」の大会をのぞいてきた。その名の通り全国の高校生たちが「映画」で優劣・勝敗を競い合うこの催しは、存在としてはかねてより知ってはいたが、決戦会場に足を運んだのは初めてである。馴染みのある早大中央図書館1階でこのような戦いが繰り広げられていたとは、在学中には一切気づかなかった。

 

 

でもそれで良かったのかもしれない。入学してすぐの十代で彼らの作品をもし観ていたら、同世代の才能とやらに打ちひしがれていただろう。それくらに完成度が高い作品があり、映画制作への執着を良くも悪くも相対化した今でなければ、嫉妬の渦にのまれていたはずだ。各賞発表の瞬間に歓喜の表情をみせる高校生を眺めては「良かった、本当に良かった、ああ良かった」と目を潤ませている自分がいて、それはそれで驚いた。

 

もちろん映像の質の向上には撮影機材やデジタル機器の発達も寄与している。背伸びすれば手が届くという価格帯に高性能のカメラ、マイク、編集ソフト等の機材があるという現代は、映画制作を志すティーンエイジャーにとってはとても良い時代だと思う。テープという物理的な容量制限はなく、PCのメモリも気にせずにさくさくと動画と向き合えるのは、100万画素のデジカメがそれを宣伝文句にしたり、携帯にカメラ(写メ)がついたと話題になったほんの少し前の‟若者”でさえ想像することができなかった。

 

「形ばかりが先行しても内容が伴わないだろう」と見る向きもあるが、果たしてそうだろか。僕はもとから文章を書くことが好きだったわけではなく、むしろ字をきれいに書くのが苦手で、作文は大嫌いだった。それが高校の終わりから大学へ入学する頃にかけて、パソコン(ワープロ)が手軽に使えるようになり、段々と書くことが苦ではなくなっていった。そうすると今度は「まずは書いてみる」という姿勢になり「書きながら考える」という習慣が身についた。展開が気に食わなかったら、「Ctrl+C」と「Ctrl+V」で切り貼りすれば落ち着くべき順序にやがてはまとまる。この間、原稿用紙も消しゴムもまったく必要としない。

 

こういった自分の経験から、それは映画制作にも当てはまるだろうと考えている。手軽に利用できる機材で「まずは撮ってみる」そして「撮りながら考える」こともあるだろうと。画はよく撮れていても肝心のストーリーが弱いというよくある指摘は、人生経験を積めば否が応でも深く‟屈折”していくものだから、“デジタルネイティブ”という世代のせいではない。訓練を積んだ職人や一部の高等遊民が占有していた道具が解放されたからこそ、色んなタイプの“未熟”が見えるようになったのだ。

 

さらなる上達のためにはそれなりの勉強や修練が必要となることはあえて言うまでもない。「撮りながら考える」ことの快楽を知った若者たちが次のステップを踏み出せばいい。また、未熟な言説が未熟なままSNS等の空間を侵食し人々を虐げている現実は、万人に解放されたツールの問題性を浮かび上がらせている。これをどうするか。形式の自由と内容の保障が問われている。