第34回『0.4%の手記 Part1』

201711/23

 

仕事がら高校のことを調べる機会が多いのだが、公立の男子校がとても珍しく、ある書籍では「絶滅危惧種」と表現されているのを今更ながらに知った。割合にして0.4%、全国で17校しかない。自分もその‟種”の一人だがあまりに身近にあり過ぎて特異性に気がつかなかった。

 

そうして思ったのは、その0.4%が絶える前に何かしらの言葉(遺言)を残しておくことは、少なからず意味があるだろうということだった。同じ男子校でも私立(中高一貫)のそれとは違いがあるはずだ。たとえば灘高校や麻布高校の出身者と会うと自分からすれば別人種のように感じるときがある。なんだか彼ら、普通の“青春オーラ”が出ているじゃないですか。

 

いけない、愚痴っぽくなってきた。気にしない。そのまま嫉妬アクセル全開で進もう。負のオーラを抱え込むのは健康に良くない。一般的な男子校のイメージはおそらく自由とかバンカラとか男くさいとかそういった類のものだと思うが、いずれも受験勉強で自ら勝ち取ってきた空気を享受しているという点で、公立男子校とは一線を画している。北関東に多い男子校は受験とは別の意味で「エスカレーター式」であり、その地域でボケーっと普通に赤とんぼや雨蛙を追いかけていると、ある日突然世界の半分を失うのだ。

 

つまり進路選択もなにも進学を目指すなら男子校しかなく、「男子校を選択した」という実感がないままに高校を選んでしまっている。「高校入学おめでとう! 女子がいないのは仕様です。」みたいなところがあり、そこへの流れがあまりにも自然なものだから、「もしかしたらみんなには女子が見えているのかも」とバグを無意識に修正して適応してゆく。実は世界の半分を失っていたのだと気づくのは、大学に入ってからである。

 

この無自覚さは私立中高一貫校を「選択」した個人には見受けられないもので、その生活に疑問を持たないというところでは、野球部のような部活の世界に近いのかもしれない。先日、甲子園の勉強にと明徳義塾で寮生活を送っていた球児のインタビューを読んでいたが、「お店や人家がないとか、情報が遮断されているとか、おかしいと思う発想がなかったです」と述懐しているのをみて、「公立男子校や!」と膝を打ち脳内で彼と抱擁を交わした。

 

 

そう、公立男子校の雰囲気とそこに至るまでの従順さは、旧制中学的というよりも部活動的であり、部活を選択する行為が子どもたちにとっては負荷なく自然なもので野球部ならそこに女子がいないのも当たり前のように、言うなればわれわれチーム0.4%は「男子校という部活(公立男子部)」に明け暮れていたとも振り返ることができる。

 

だから私立校の男子が持ち合わせているような“自主性”だったり“エリート意識”だったりというものは教員を除いて生徒には広く共有されているとは言えなかったし、そんなものはどうでもよく本当の意味で自由にやっていた。目的なき自由というか、それは勉強はするのだけど人生や社会に対する気負いはなく、バットの代わりに鉛筆を握った甲子園球児のようにオートマチックにのぞんでいた。

 

それでこれが良かったのか悪かったのかはいまだによくわからない。毎日野球をしていれば多少はうまくなって甲子園もみえてくるのと同様に、毎日勉強していればいわゆる上位の学校がみえてくる。しかしそれだけの話だ。あえて語るまでもないが、問題は進学先で自分が何をどうしたいかである。自分のために、他者のために、「この私」がすべきことは、反復練習だけでは決して獲得できない。これを「内発性」と呼んでもいいが、先述の通り“無自覚な公立男子校”は“自覚的な私立男子校”と比べてここが弱いのではと感じている。また中高一貫と比べては3年間で勝負しなければならないため、時間的ゆとりがない。物理的にゆとりがないと、豊かな精神が涵養されない。ゆえに文化も育たない。多くの公立男子校には長い時の流れを指す以上の歴史性はない。

 

ちなみに冒頭の数字を引いた書籍では「男子校では現代に失われつつある“男らしさ”を得ることもできる」といった記述があり、これも公立に限っては明確に否定しておきたい。(男らしさ・女らしさという区別のバカらしさを指摘することは割愛。)もし「男子校に行けば俺の憧れるLDH的な男社会が待ってるぜ」という中学生がいたら全力で引き留めるつもりだ。むしろ逆です。女子高も似たようなものと聞くが、同性の集団で過ごしていると男女の役割を演じなくて済むのでフラットな関係になる。(一方で、男女の演じ分けが進み性規範が強化されるという知見もある。このへんは難しい。)自分の高校生活を振り返るとみんな優しくて、オラオラしているやつはなく、極めて“女性的”な空間だった記憶している。僕はそれがとても過ごしやすく、麻布高校に憧れはするが実際は遠慮したいという相反する気持ちもあり…。それを踏まえると公立男子校は部活的だが(いま渦中の)相撲部屋的な空間ではないといえる。

 

 

なかなか答えが見えてこない。「世界の半分」はそれなりに居心地は良かったが、大学で再び統合を強いられたとき――東西ドイツを想起いただきたい――自分のなかで大きな混乱が生じた。片田舎で鼻歌まじりにトラバントを運転していたら、いつのまにか首都高に合流し煽りに煽られ出口もわからないという状況である。プリウスの集団で“東側”の所作なり会話なりをみせるとスーッと音もなく引かれることが多々あった。(今だったら「KY」と言われるのだろうか。思い出すだけでも悲しくなる。)これが私立男子校だと違う。彼らは気づくとアメ車を乗り回し‟アメリカン・グラフィティ”ばりの青春を謳歌し始めているのが、わがトラバントのサイドミラーに映っていた。(特に飲み会の自己紹介で「裏口」とお声がかかる方々! …羨ましかった。)

 

僕が「統一後」どれだけ「事故」を起こしたかは、卒業まで5年かかったことでお察しいただきたい。それら後遺症を正しく総括することから、公立男子校のメリット・デメリットを今後まとめてゆく予定だ。(※なお、本稿で描かれる公立男子校生とその後は経験から顧みるしかない一例です。幸せに過ごしている仲間たちがマジョリティーだということ断っておきます。)