第8回ジレンマ×ジレンマ「学校論~ジレジレ的教育諮問会議」

201306/16

 

第8回ジレンマ×ジレンマ「学校論~ジレジレ的教育諮問会議」(制作:いちじく 司会:高橋佑太)

2013年6月15日放送 場所:水道橋ギークカフェ

【動画URL】 http://youtu.be/NIoworIML1Q

togetterによるまとめはこちら→ http://togetter.com/li/519048

 

 

【番組内容】(告知文より引用)

何か問題・事件が発生するたびにさまざまなメディア・研究で語られる学校であるが、テレビや新聞で語られる学校の姿、もしくは政策論議で決定される対策事項に違和感を覚えることが少なくない。

たとえば「学級崩壊」「学校裏サイト」「モンスターペアレンツ」は本当に存在するのか、メディアはある側面を強調しすぎていないか。昨今の生徒、教室の質は本当に落ちているのか。

専門家・研究者・メディアも千差万別であるが、そこに学校に通ったことがある、かつて当事者だった「僕ら」の声が反映されることは限りなく少ない。

そこで、ジレジレは世間に数多くある「学校語り」のなかで、「素人であり、かつて当事者」であった「僕ら」が集まり、その立ち位置だからこそ語れる学校論を語る。

当事者として学校の姿を知る「僕ら」だからこそ語れる「学校論」、そこから真に有効な学校対策、教育対策のあり方を提示する。

なお、今回では「学校」の対象を中学校・高校とする。

【語らいの様子】
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【シカミミより】
番組の終わりには「対話」が焦点となりましたが、バトンを次に渡すように、前のオーディエンスが今度の登壇者となって対話を繰り広げていく展開が、ジレジレという場をよく物語っています。

 

さて、今回の企画は、おもに中高生に見てほしいという想いがあったようです。ぼくも同感で、思想でも社会問題でも、なにか若い人に訴えかけようとしたとき、「大学生」ではどこか“手遅れ”といった感じを抱いていました。受験システムが若者の素直な感性・思考回路を破壊し、大学でそれが実存の再構築に繋がるならいいのですが、多くは丸山真男のいう「抑圧の移譲」として他の誰かを抑圧する方に向かってしまう。“説く”なら中高生からだ、そう思っていました。(「苦労は買ってでもしろ」というのは、苦労を与える側の発言であって、意味のない苦労などする必要はありません。教育現場で“抑圧という名の苦労”に出くわしたら、抵抗すべきです。)
「入ってしまえば終わり」の受験システムを崩さないかぎり、中高生の個性はどんどん抑圧にかけられ“平たく”なっていく。(センター試験が良い例です。)入口の偏差値ではなく、卒業時の成果で、人間を見てほしい。制度改革が無理なら外に大学をつくるしかない。これからの教育を担うは「市民大学」だと個人的には信じています。

 

ぼくは「不登校」も「脱就活」も“生き方の選択肢の一つ”として認めていきたいのです。それは受け皿となるコミュニティ(中間共同体)があれば可能だと。つまり「実存を担保する場」は“学校”や“会社”以外の“社会”にもあり、そんな「外部」をつくるべきだということです。
社会におけるこの種の“異邦人”は個人の生き方の話にとどまらず、例えばトリックスターが閉塞した共同体に揺さぶりをかけて逆に再生させるように、結果的に社会に新風を吹かせます。「異邦人(他者)への開け」があることが、社会存続の鍵ともなっているわけです。

 

また「スクールカースト」の話題も出ましたが、その構造はピラミッド型の受験体制の精神がクラス単位まで移ってきたものに見えます。教育の現場に「頂点」を設定している感覚が、自然と生徒同士の関係にも“内面化”されている。「頂点」を解体し、カンタン系の序列はバカらしい、やりたいことやるやつが一番かっこいい、そんな雰囲気に持っていけたらと。

 

最後に、学校はそもそも社会の「理不尽」や「不条理」を教え込む場だというひねくれた見方もあるでしょう。でもそれは社会全体のことを考えていません。「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び」の精神が何を生んだか。――戦争です。
ジレジレはとにかく語り合うことで思考停止の流れに抗う“学校的”なコミュニティであってほしい、ぼくはそう願っています。