シカフォトブック

ふと迷い込んでしまった場所で、何気なく撮った写真が、自分の「思い」を「かたち」にしていることがある。

 

あたかもさりげなくシャッターを押すかのように書いたが、実のところ部屋の整理で捨てられようとしていた古びたコンパクトカメラをゴミ袋から取り出し、町へ出てみようと思い立った時点で撮影者たらんとする姿勢がそこにはある。

しかしその意気込みに反して、手にした98年製のこのカメラは(電池を入れると「”98」表示され、調整がきかない。)ピントがどこに合っているのかわからないし、当然のことながらフィルムを使用するため一枚一枚確認して撮り進めることができず、写真の出来は半ば偶然に委ねられている。

 

そのため意図せずに焼き付けられた、光、色、枠などに隠れた「思い」を知らされる気持ちになる。またこれが、あまり高度な機能がついていない、ほぼ原始的と言ってもいい仕組みのカメラ――MINOLTA F35 Big Finder――を鞄に忍ばせている理由である。(のちに工作キットで組み立てた玩具の二眼レフ、gakken flexも併用。)

 

Big Finder「思い」を「かたち」にすることは、人が生きるうえで欠かせない象徴的な行為ではないかとは、終始一貫したテーマでもある。

 

一昔前ならば、「かたち」はさまざまな主義に代表される「大きな物語」の枠組みを借りていたといえよう。

それが否応なしに崩れ、機能しなくなった時代では、一人ひとりが自分の手で物語を組み立て、信じて、生きていかなくてはならない。

端的に言って、「自分の物語」は「自分の言葉」と置き換えられるが、“言葉を失う”という表現があるように、ときにそれは困難を伴う作業として人生の局面に訪れる。

 

その際には何が手がかりとなるのか。文字通り、“写真の枠”に見たものを収めるのは面白い方法ではないか、というのがこの試みの根底にある発想である。

 

人が言葉を失うとき、世界は秩序もなく途方もない広さで立ち現れる。どこかに分節をつくらなければ、全体の意味が浮かび上がってこない。

たとえば暗闇のなかで“活動写真”であるところの映画を観ると心落ち着くのは、その母胎に似た空間もさることながら、「枠のある世界」によって生まれくる意味に浸れる悦びがあるからではないだろうか。

同じ映画でもスクリーンを見上げる視線の数だけ意味が付与されうる。同様にして、いま自分が世界に向けるまなざしを写真に切り取り、イメージを連想させていくことは自己を物語に導く糸口になるかもしれない。

 

主眼はあくまで自分の枠を見いだすことなので、あまりうまい下手にとらわれないようにしたい。

また単純な構造(トイカメラ)かつ撮り直しができない環境(フィルム)だからこそ、撮影者の存在が色濃く出てしまう。(このミノルタは、いわゆる近ごろはやりのトイカメラだ。)

言うまでもなくそれは、物語の発色となる。

 

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