引用日記まとめ10(アンドレ・ブルトン)

201008/26

引用日記のテーマ「存在」2010年8月26日

 

アンドレ・ブルトン『ナジャ』(新潮文庫)より引用。

 

「私は誰か?めずらしく諺にたよるとしたら、これは結局、私が誰と『つきあっている』かを知りさえすればいい、ということになるはずではないか?」p.11

 

これを現代風に言えば、「私は誰か?これは結局、私が誰を『フォローしている』かを知りさえすればいい」となる。ツイッターで彼・彼女がどのような人物であるかを知りたい場合、自己紹介の欄やその人のつぶやきを見るよりも、フォローしている人を確認したほうが真実を語ってくれる。

 

「類は友を呼ぶ」とは至言で、私の存在はその「つきあい」によって明らかになる。逆にいえば、その人を形作るのは関係性でしかなく、私が「私」を自己言及的に規定することはできない。「私」は私が求めていることによって、次第に存在が露わになっていく。

 

「私は誰か?」の問いに答えようとして「自分探しの旅」に出ても、旅先で「やあ」と僕が待っていることはない。それよりも、旅に出る前に落ち着いて自分の関係性を顧みて、自分がなにを求めてきたのかを確認・反省したのちに、改めてその関係性を整えてやったほうが、「私」を探しやすいと思う。

 

もちろん旅やボランティアで「私」を発見することもあるだろうが、それは新しい関係性を見つけたということだろう。失敗しそうな「自分探し」は、私に似合う服を探すように、あれじゃないこれじゃないと旅やボランティアを繰り返していくようなもの。モノそのものに「私」がいると思うのは幻想だろう。

 

視点を「真の~」から「私の関係性」に変えれば、ヘンな幻想に囚われずにすむ。

 

なぜなら、お金や友達の数で自分の存在を定めていたら自然と「格差」の意識に囚われるが、各人の関係性には優劣はないからである。「私」の関係性は唯一のものである。私を取り巻き、私を形成する、親、友人、恋人、趣味、仕事、書物たち。それらは同時に「私」ぬきには語れない関係性の網である。

 

私とは誰か?関係性だ。となると「私」には実体などないのかもしれない。解剖学者の養老孟司さんはよく「多くの人は『私』は変わらず、情報は日々変わっていくものと考えるが、事実は逆で、変わらないのが情報、変化するのが『私』である」と言う。細胞レベルから関係性まで「私」は日々変化し続ける。

 

過去も不変なものではない。私が保持しているのは「過去そのもの」ではなく「過去の記憶」である。今の関係性によって過去の意味づけ=位置づけも変わってくる。過去が絶対的に強固なのがトラウマで、それは過去の関係性から逃れられないから生じる。心理療法は過去の関係性を再現し、心を解放に導く

 

私は誰か?それは私が何を追い求めているかを知ればいい。しかし追っているものが、謎そのものだとしたら、私は誰になる?ブルトンは謎の美女、ナジャを追跡する。そして謎の深みにはまりながらパリの街をさまよっていく。そのナジャとの出会いはこのようなもの。『ナジャ』(岩波文庫)より。

 

「奇妙な化粧をしていて…その目のふちだけはブロンドの女にしてはとても黒い。(…)私はいまだかつてこんな目を見たことがなかった。ためらわず、ただし最悪の事態も覚悟していたことは認めるが、この未知の女に声をかける。彼女はほほえむ。(…)事情はわかっているというような微笑である。」73

 

「彼女は名前をいう。自分でえらんだ名前である。『ナジャ。なぜって、ロシア語で希望という言葉のはじまりだから、はじまりだけだから。』」p.76

 

「私はほかのすべての問いを要約するひとつの問いを、(…)彼女に問うてみたくなる。『あなたは誰?』すると彼女は、ためらわず、『私はさまよう魂』。」p.83

 

ブルトンはナジャの軽さ、自由さ、率直さに感動する。実はナジャは「精神病者」であることがのちにわかる。しかしシュルレアリスティックなやりとりが、かえって魅力的なものとしてブルトンの目に映ったようだ。

 

ブルトンはナジャと交際していくうちにやがて混乱に陥っていくのだが、これは恋愛にはつきものの「謎」であろう。私は誰かを知ろうとし、他の誰かを好きになる。そしてかえって私は誰かわからなくなる。追い求めることで私の存在を確かめるはずが、逆に私の存在が揺らいでしまう。さて私とは誰か?

 

「このとりみだした追跡行がここでおわってしまっていいものだろうか?何を追っているのかはわからない、だがこれは、精神的誘惑のあらゆる技巧をそのようにして用いるための、追跡なのだ。(…)狡猾な犬のようにナジャの足もとに寝そべっていた現実の前で、私たちは誰だったのだろう?」p.129

 

小説はこのような語りかけで終わっていく。

 

「誰がいるのか?あなたなのか、ナジャ?あの世が、あの世のすべてがこの人生のなかにあるというのは本当か?私にはあなたのいうことがきこえない。誰がいるのか?私ひとりなのか?これは、私自身なのか?」p.171

 

はたと思う。『ナジャ』のこの終わりかた、何かと似ている。彼も精神病を抱えた恋人にとりつかれ、混乱した日常をさまよい歩き、最後にある問いを発する。“100パーセントの恋愛小説”、村上春樹『ノルウェイの森』より。

 

「僕は今どこにいるのだ?僕は受話器を持ったまま顔を上げ、電話ボックスのまわりをぐるりと見まわしてみた。僕は今どこにいるのだ?でもそこがどこなのか僕にはわからなかった。見当もつかなかった。いったいここはどこなんだ?」『ノルウェイの森(下)』(講談社文庫)p.293

 

シュルレアリスムだろがリアリズムだろうが、何かを追い求めることで存在の不気味な実態を思い知り、「私は誰か?」を問い続けなくてはならない場合がある。求めるほどに私の存在が謎となる、ある種のモノ。そうとなれば、存在とは問うことでしか現れない、なんとも不思議なものと認識するしかない。

 

存在は問い続けなければならないテーマとして、今後もいろんな角度から攻めていく。このことを確認して、アンドレ・ブルトンデーは終わりにする。引用日記、今週のテーマは「存在」でした。

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