シカミミの絵日記3『ウランバーナの家』

201208/19

 

絵日記3『ウランバーナの家』

 

夏休みの絵日記の宿題に向かうように、替えがきかない自分の物語を掘り下げることを目的に始まったこのエッセイ。ここにはおそらく人目を引く壮絶な悲劇や成り上がりのプロセスが書かれることはない。健康だけが取り柄であるような普通の人が見てきた世界が描かれることだろう。それはいたって平凡かもしれない。でも、平凡だからこそそこに一つの物語が築けたならば、どんな人生にも固有の物語があるといえ、逆説的に“普通の人”などいないことが導けるだろう。これは大きな軸を失った時代においては、大事な作業になると信じている。

 

さて、改めて自分の物語について内省しているのは、いまお盆で「本家」の長野県に帰省しているからだ。前回の絵日記で紹介した群馬県の故郷は母方の血筋にあたり、そこがぼくの生まれ育った「実家」としてあるわけだが、この姓の出どころであり“お墓を守る/守らない”で揉める方の血は、父方の地に流れている。これを便宜的に「本家」と呼んでおく。つまり父は結婚して母方の地に居を構えたということだ。婿入りでもないから、少しややこしい。

 

そういうわけもあって、ぼくにとって「本家」の土地を踏むことは、「実家」に帰るときよりも大きな時の流れを意識する。それを血の流れといってもいいが、この身は父と母から半々ずつ受け継いでいるものなので、あまり正確な表現ではない。しかし名に冠する姓の方はどうしても歴史性を帯びるもので、ことに慣れ親しんだ記憶もない“故郷”を前にしては、そういう観念的な見方が強くなる。

 

ここからモリタさんが出て来て、代々生活を営んできた。普段は運命など考える余地もない暮らしをしていても、その場の空気を吸うと、個を超えたところで働く何かを想ってしまう。それは“私は誰か”という問いがある文脈のなかに位置づけられることを意味する。果たして先祖は何者で、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。そして彼らはその最新バージョンであるぼくに満足しているのか。「モリタさん、モリタ7.0が帰ってきましたよ。」

 

そんなふうに思いながら、長野で仏さまを迎える。7.0は内心怒られるかもと怯えつつ、牛と馬に見立てられたナスやキュウリを見ていると、その小さな先祖になんだか許されそうな気もして安心してしまう。今年は新盆でお坊さんもやってきた。ぼくらは礼服に身を包み、焼香の匂いをかぎながら、お経に耳を澄ませる。一通りの供養を終えた後、お坊さんは「お盆について」と説法をする。

 

いわく。おじいさんは現世では長寿を全うし、人生の先達として旅立たれたけれど、向こうではまだ新入り。いま、おじいさんが世話なっている先輩方がいる。お盆には、自分の先祖の他にもそういう先輩方も招かれる。特に、一家が途絶えたとか、お盆を開いてくれないとか、そういう仏さま(餓鬼さま)に「どうぞどうぞ、うちにいらして下さい」と声をかけている。ぜひお盆にはそういう心構えで厚くご供養してほしい、と。

 

おじいさんは小さなナスに乗っかってきて、見えない箸使いで客人に食事をふるまっているのだ。ぼくらは現世でも新入りの務めは何たるかをよく知っている。これは応援しなくてはならない。キュウリの漬け具合が甘かったりして恥をかかせたくはない。

 

先祖とぼくらとの共同作業。こういう想像力が現世に物語(意味)を与え、個の命を生につなぎとめる役割を果たすのだと思う。これを宗教と呼んでもいいが、そのイメージはせっせと客人をもてなすおじいさんの姿で十分。もう戦わなくてもいい。かといって楽園でもない。いつまでも新入りの扉はある、そんな時間軸を頭の片隅にでもセットしておくことで、目の前に広がる世界の景色は変わってくるのかもしれない。

 

送り火を見ながら、いつか自分がナスに乗る日を思い浮かべていた。切ないようで。楽しいようで。日常が少し、軽くなった。