運動に架ける橋

201208/16
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ある雑誌に寄稿したものをここに載せます。いま、盛り上がりつつある新しい人々による新しい運動に寄せたものです。

 

「あなたはなぜ運動をしようと思ったのですか。その動機はなんですか?」

 

記者に、知人に、道行く人に、よく聞かれる質問だ。運動の内容や意義(就活デモや原発デモなど)を一通り説明し終えた後に、ふっと最後に投げかけられる問い。それまですらすらと答えていた口が、虚をつかれたように押し黙る。就活はおかしい、原発はいらない、それはもっともなことかもしれない。でも「就活はおかしい、原発はいらない」と思って行動しているこの自分とは何か。制度や事故の問題把握から、自分が足を動かし声を上げるまでにはだいぶ飛躍がある。本人は無意識に乗り越えていたとしても、社会と自分との距離を埋める言葉こそ、人が本当に知りたいと思う言葉であり、唯一、運動というものに対して心を開く窓なのである。問題を見せつけるだけで感化できると思っていたら、正直それは間違いだ。問題など、メディアを通じて日々お茶の間に流れているのだから。なぜ自分は動いているのか。問題はそこだ。この問いと向き合うことなしには、社会のためという言葉も空々しく響く。

 

このエッセイではぼくの言葉を語ろう。ぼくと社会(運動)の関係に、言葉の橋を架けたい。渡れると思ったら、遠慮なく使ってほしい。

 

まず、運動の動機を知りたいという言葉の裏には、「なぜ得にもならないことをしているのか?」という意味が刻み込まれている。デモに出れば逮捕されるかもしれない。(公安にマークされることもあるだろう)。一生懸命主張を唱えても社会は変わらないかもしれない。(デモは政策を通すには効果的な方法とはいえない)。万が一変化が訪れたとしても、自分はその恩恵にあずかれないかもしれない。(就活デモが実を結ぶ頃にはもう就活生ではない)。突き詰めると、自分にはメリットの少ないことを、他者のためを思って行動できるのはなぜか、という問いに整理される。自分の人生を生きるだけでも、十分でないかと。

 

そう、人生は大変だ。先がまだよく見えない若者など、毎日が不安に駆られている。それなのに、自分のことを差し置いて他者のもとに駆けつけるとは、どういうことか。

 

ここで、人生というものについて考えてみたい。人は生きなくてはならない。確かにそうだろう。与えてもらった命を自ら棄てることは自然の摂理に反する。だが、「生きること」は「生き残ること」を意味するのだろうか。もし、人間への至上命令が「生き残ること」であったら、結末は見えている。人は、必ず、死ぬ。敗北するレースを懸命に走るのは、なんとも虚しいことで、そこに意味を見出すのは難しい。となると、「生きること」は「生き残ること」とは別の次元にあると考えたほうがいい。つまり、人生とはそもそも自分の損得で計られる物語ではなく、「生きる」ためにより優れた意味を付与していく行為ではないか。

 

ここにきて、運動の動機を問うことは、生きる意味を探ることに他ならなくなる。そして、「意味ある生」を考えたときに、人々を孤独なレースから救うのは、他者の存在ではないか。具体的には、他者の呼びかけに応答していくことではないか、と思うのである。

 

他者の話題になったところで、ひとつ小話を紹介したい。

 

神聖ローマ皇帝フレデリック2世(1194‐1250)が中世におこなったある実験だ。 それは乳児たちに衣食住は十分に与えるものの、一言も言葉を話しかけずに育てたら何語を話し始めるかという言語の実験だった。人間の生まれ持った言語は何かを調べるという、この好奇心に満ちた王様の実験は、乳児全員の死という予想外の結末を迎えた。これが教えるのは、人が生きるためには何より「他者のまなざし」が必要であり、そのまなざしは言葉を通して届けられるということだ。他者の存在が確認できないと、人は自ら生を閉ざしてしまうのである。

 

のちに、人間(乳児)は他者を鏡として想像的に自分を獲得していくといった理論が生まれていったが、こういった知見によって、「自分は他者の一部であり、他者は自分の一部である」という考え方を自然に導くことができる。このようなことを書いたのは、自分と他者の関係が切っても切れない関係にあることを示し、人が他者を意識し他者に応えることの必然性をおさえておきたかったからである。

 

本筋に戻ろう。他者の呼びかけに応答するところには、意味が生まれる。その瞬間、底なしだった生に生きることの網が張られ、主体(ぼく/わたし)が形成される。これは決して受動的な姿勢ではない。しっかり声を聴き、的確に反応していくことで、その人しか描けない軌跡(=人生)が浮かび上がるのだ。

 

また、求めかけるようなまなざしは過去からもやってくる。ヒロシマやナガサキの死者を弔うとき、人は過去の他者に応答している。この時代、この国で生まれたことによって背負う歴史性に対する応答も、生物学的な「生き残る生」には還元できない固有の意味を各人に与える。

 

はじめに、ぼくと社会の関係に橋を架けたい、と言った。その支柱は「応答責任」で立てられている。横の関係性と縦の歴史性が人生の意味を織りなし、ぼくという個を生成させる。ぼくにとって運動とは応答するステップであり、生きるためのアート(技法)であり、ひとえに、「生き残る」ではなく「生きたい」という願望のあらわれである。

 

最後にぼくも問おう。あなたはなぜ運動をするのですか。

 

革命のため?

 

では、あなたと革命の関係を教えてください。