人間における言葉の意義について

201207/19
Category : Notes Tag :

先日「ポストモダンと臨床心理」をここに載せたが、同じく大学で臨床心理学を学んでいた時期に「人間における言葉の意義」というエッセイも書いていた。これもまた「生きるとは何か」を考えた先にある問いであり、当時自分が向き合っていた問題系であった。引き続き、臨床心理学をテーマにした二つ目の文章を紹介したい。

 

言葉はただ情報伝達を可能にするために人間に与えられているのではない。情報伝達のために声帯を震わせるのは人間だけでなく、小鳥のさえずりや犬の遠吠えもその種の行為であるから、それら「音」と「言葉」は明確に区別される必要がある。人間にとっての言葉とは実存に深くかかわる問題で、いわば世界そのものである。そのことを如実にあらわす例が、神聖ローマ皇帝フレデリック2世が中世におこなった言葉に関する実験であろう。

・フレデリック2世 (1194-1250)

乳児に衣食住は十分に与えるものの、一言も言葉を話しかけずに育てたら何語を話し始めるかというこの実験は、乳児全員の死という結末を迎えた。これが教えるのは、人が生きるためには他者のまなざしが必要であり、そのまなざしは言葉を通して届けられるということだ。つまり言葉とは他者からの贈りものであるといえる。乳児には言葉が指示する情報の内容はわからないから、そこでのやりとりは情報伝達の域を超えている。では一体なにが生じているかといえば、乳児に言葉を話しかけるとは「ここにあなたに向けて言葉を発している誰かがいる」ということを伝える試みにほかならない。そのような贈り物としての機能をもった言葉は大人になった人間たちの間でも交わされており、他者との良き関係性を築くことにつながっている。つまり、言葉を贈られて人は他者の視点を内在化していく。言葉がなければ他者を把握できない。他者を把握できなければ自己と出会うこともなく、世界それ自体が成り立たない。人間は他者を鏡として生きる関係性の生き物であり、生きるために言葉を無意識的にも必要としているのだ。

 

混沌とした世界に言葉が投げ込まれることによって自と他が生成し、言葉を話すことによって自と他のあいだに交通をつくりあげていく。しかしこの交通がなにかしらの要因で滞ってしまい、言葉の行き場がなくなってしまうと、無意識は違ったかたちで出口を求めるようになる。それが神経症となってあらわれれば心理化、心身症など体にあらわれてくれば身体化、そして攻撃性に転じれば行動化となる。現実では口が塞がれているからと夢にイメージを送ってくる場合もある。このように抑圧された言葉(=無意識)はさまざまな経路をたどって語られることを望んでくるわけだが、心理療法の過程とは、セラピストとクライエントとのあいだにそれまで自分が背負ってきた関係性を再現し、イメージや言葉など象徴化の手段を使ってクライエントに自らの生を語りなおさせる作業に他ならない。人は言葉にすることで生まれ変わる。言葉の再生は自己をとりまく他者との関係性の再生である。そして再構成された関係性のなかで世界は交通を取り戻す。世界を根底から変えてしまう言葉のもつこの象徴化の作用こそ、人間以外には観察できない言葉の本質といってもよい。

 

しかし言葉が人間に象徴的な次元をもたらすのは、そもそも言葉が人間に悲しい次元を生きさせてしまっているからだといえる。人は言葉を他者に向けて語れば語るほど、他者との隔たりばかりが際立って、他者と一体になることは不可能だと知る。これは言葉を獲得した人間の深い悲しみである。人間は「原初的同一化」が実現できないことを認識して言葉を引き受け、それを象徴的に操っていく。この種のもどかしさは、自分のなかに潜む他者、すなわち「死」と言葉の関係にも当てはまる。ここにきて言葉は人間の実存のさらに深い領域に入り込む。

 

「死を首筋に書き込まれた存在」(ラカン)である人間たちが、普遍的な無意識のレベルで語りだす言葉は死である。言葉を超えて他者と一体になりたいと願うように、意識の底では言葉を排してすぐさま土に還りたいという衝動が渦巻いている。生きることの深い悲しみに触れ、死の側面に強くひかれすぎると、精神的な病(不安神経症など)にかかってしまうこともある。しかし、フロイトが「死の欲動」と名づけ、ラカンが「言葉の壁」と呼び、ユングが「元型的布置」と表現した「言葉では語ることのできない次元」にこそ、逆説的に言葉の絶対的な本質を見出すことができる。そこでおこなわれる象徴化は、生きる根源を求めるという人間にとってもっとも重要な言葉を探す作業になり、そのとき「言葉」は「存在」と同義になって本質を露わにする。なぜ生きるのか、なぜ「私」は存在するのか、なぜ「世界」は始まったのか…。おそらく晩年のユングが易経など神秘的な方面に活動の幅を広げていったのは、人間にとっての言葉(=存在)の意味を真剣に考え、自己を象徴化するプロセスのなかで導かれてたどり着いた結果なのだろう。このように人間における言葉の意義とは、生きた次元で心理化・身体化・行動化の症状を象徴化することにとどまらず、究極的には死の次元で突き当たる人間における存在の意義に等しくなる。