ポストモダンと臨床心理

201207/17
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就活問題や大学問題の中で増加する若者の自殺者を見るにつれ、「自殺」というものについて改めて考える機会が増えた。思えば、自分が大学の学問の入口としたのは紛れもなく自殺の命題だった。まさしく、「真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する。これが哲学上の根本問題に答えることなのである。」というカミュの言葉(『シーシュポスの神話』)を思想の出発点に置き、自分の実存と密接に結び付けながら、日々「自殺」と向き合っていた。

人を死に追いやる現実の諸問題に対して、オルタナティブな創造をもって乗り越える方策もあるが(事実、これがぼくが目指しているものだが)、一方でこの現実の中でいかに人をケアしていくかという発想も同等に必要なものである。今回は、臨床心理学を引き合いに出して未来ではなく「今」求められる言葉を述べたい。まずここに記すのは、ぼくが交流学生として一年間学習院大学で臨床心理学を学んでいたときのエッセイである。また、臨床心理学がとらえる自殺については「引用日記まとめ4(河合隼雄)」にも少し書いてあるので、参照されたい。

 

ポストモダンと臨床心理

(1)個性化の過程

臨床心理学に基づいた心理療法とは、言葉や絵画、遊びなどを通して、人間の遮られていた自己象徴化のプロセスをカウンセラーとともに遂行していくものです。ここで「クライエント」と書かずにあえて「人間」という言葉を使ったのは、臨床心理学の射程は相談に来る一部のクライエントだけでなく、すべての人間に向けられていると考えているからです。まさに、このような意味でユングは人間の「個性化の過程」を説いたのでしょう。河合隼雄は個性化の過程を「個人に内在する可能性を実現し、その自我を高次の全体性へと志向せしめる努力の過程」と表現し、それは人生の究極の目標であるとともに心理療法の最終的な目的であると言いました。(河合隼雄『ユング心理学入門』より)。授業ではよく「遊戯療法」の事例が挙げられましたが、そこで子供たちに生じたことは「欠如-回復」のプロセス(=治療の過程)にとどまらず、「破壊-創造」のプロセス(=個性化の過程)だったと思われます。ぼくたちが事例を聞いてときに深い感動を覚えるのは、ある症状か治ったからではなく、個性化の過程を目の当たりにした、すなわち今ある自分を越えて大きくなろうとする人間の生命の神秘に触れたからでしょう。そのため、精神科医を含めた医者の「カルテ」が人の心を揺さぶることは少ないですが、カウンセラーの書き記した「事例」は往々にして人々に衝撃を与えるのです。

 

(2)疎外による象徴化の失敗

人間は象徴的な作業を通して個性化の過程を歩んでいくことがわかりました。しかし、人間を全存在的に成長させてくれる象徴化の作業が、現代社会で生きる人々には難しくなってきているように思えます。その理由のひとつに資本主義社会に特有な「人間疎外」が挙げられます。マルクスは資本主義社会で働く人間には、「労働生産物からの疎外」、「労働行為そのものからの疎外」、「労働者の類的存在からの疎外」の三つの疎外が生じることを指摘しました。本来、モノを作るという労働行為は、プレイルームでの遊びのように、または箱庭を作ることのように、象徴的な作業であったはずです。文化人類学者のレヴィ=ストロースは、人間と労働の本来的な関係についてこう述べます。「人間はただ単に、より多く生産することに意を用いるのではありません。このことを経済学者が忘れる時、人類学はそれを思い出させようとするのです。人間は、仕事をとおしてその本性に深く根ざした欲求―個人としての完成、自らの印を物質に刻みこみ、作品を通じて自らの主観に客観的表現を与えるという欲求を実現しようとするのです。」(レヴィ=ストロース『レヴィストロース講義』より)。今の社会で仕事を通して「個人としての完成」を目指せる人がどれほどいるでしょうか。それは疎外を生みだす社会システム上、不可能に近いのです。だから「自己実現」という言葉がこんなにも氾濫している世の中は皮肉以外のなにものでもありません。しかもそこで言われる「自己実現」とは、今ある自我の安定性を壊してより高次な統合性を志向することを意味するのではなく、惰性的な自己肯定感に基づき、好きなものだけを追い求め、自我の破壊を恐れて守りに徹する「自我実現」です。マスメディアが吹聴する「自己実現は」決してユングのいう意味での自己(self)ではありません。

少し話題がそれましたが、特に一年の多くを疎外された労働に費やす日本人は、象徴化の流れがせき止められているに違いありません。しかし20世紀後半まで、今ほどにカウンセラーが必要とされなかったのは、「大きな物語」が機能していたからでしょう。

 

(3)大きな物語後の「私」の物語化

 「大きな物語」の時代とは、社会が個人に人生の指針を与えることができた時代のことです。いわば社会の価値観に則って個人が生きられた時代です。社会学的には1945年から70年までが「理想の時代」、70年から95年までが「虚構の時代」と呼ばれています。「理想の時代」は主に自分の物語を政治的な物語に結び付けて考えられた時代で(学生運動など)、「虚構の時代」は政治的な理想が敗れ、経済発展が自分の物語になり代わっていた時代(終身雇用制度など)です。いずれも社会が個人に「生き方のモデル」を提供できていたことが共通しています。そういった時代においては、人々は個人的な象徴化作業がうまくいかなくても、社会的な象徴化と同調することでなんとか生きることができました。しかし21世紀を迎えた現在、政治も経済も安定性を欠き、「あるべき人生」といったヴィジョンが描けなくなりました。誰も先のことはどうなるかわからない、価値観は多様化し、どれが正しい言説でどれが間違った言説かもわからない、そのような社会を「ポストモダン社会」とここでは言います。

労働は相変わらず疎外されたままで、その抑圧を補うような大きな物語ももうない。大きな物語がないのだから、そこに参加するために必要だったイニシエーションもない。無限に引き延ばされたイニシエーションは「永遠の少年」たちを生みだし、彼らは社会の不適応者とみなされていくことでしょう。以上のことから、ユングの「個性化の過程」を現代に当てはめてみると、ポストモダン状況に生きる人々は、それまで社会が準備していたイニシエーションを自分の手で用意し、自分で大人であることを宣言し、自分で自分の物語を作っていかなくてはなりません。明らかにこれは自己言及的(再帰的)で、波乱に満ちたプロセスと言えるでしょう。実際、象徴化の失敗=物語化の失敗によって精神を病む人はポストモダン社会になって増えています。その例に日本の自殺者数をとってみると、1998年に自殺者が3万人を超してから、その数字はもう十数年高止まりしたままです。では人々はどうすればいいのか。ここに「物語化の支え手」が求められるのです。

現代になってますます困難になった個人の物語生成を援助するのが臨床心理士なのでしょう。病であるかないかはあまり問題ではありません。社会がどんなに変わろうとも、人間は自己の物語の生成を求め続けます。本質は病名ではなく、物語の生成です。大きな物語後の時代は、臨床心理士が人間の主体性を重んじながら、ひとり一人の物語の生成を支えていく構図になることが想像されます。そしてそこに臨床心理学の今日もっとも重要な役割があるとぼくは思います。臨床心理士学は、寄る辺ない人間の物語の生成を担う、ポストモダン時代にもっとも必要とされる学問なのです。

 

ぼくは上記のエッセイで、臨床心理学を個人の物語の生成(個性化の過程)を担うものと位置付けた。河合隼雄は『ユング心理学と仏教』という本のなかで「自殺は本当は自我殺し(egocide)が意図されているのだが、クライアントはそれに気づかず、自分自身の命を断とうとしている。そのことを明らかにするのが、治療者の役割である。」と言う。つまり自殺の本当の意味は、suicideではなく、egocideであると。一度いまある自我を殺して、より大きな自分へと成長しようとしているときに、その負の面だけにとらわれてしまい、自ら命を絶ってしまう。人間の成長過程には、一度は(いや何度も)訪れる危機だ。

社会のオルタナティブを創造する前に、ぼくは個人(友人)の物語に寄り添える一人の人間でありたいと思う。それを忘れないよう、ここに記しておく。