舞台空間の越境について(バナナ学園問題に寄せて)

201205/29
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バナナ学園の舞台が「問題」として浮かび上がっているようだ。観客を無理やり舞台に引き上げ、俳優がその女性に対し性的な身振りをともなう接触を行なったという。当然、女性はそれを不快に思い、大きなショックを受けたと報じられている。劇団はその後のやりとりの中で謝罪を発表したが、まずは被害として認知されたことを法的な観点から照らし合わせた上でケアする必要がある。そして次に、それが“舞台表現としてどうなのか”が、演劇者として問われることになるだろう。その点に関して、以前、バナナ学園の舞台を観たときの感想をここに再録したい。(twitterより)

①バナナ学園の舞台では、観客はその特権が剥奪される。観客には事前にレインコートが配られるが、少し水が飛んでくるのかな程度に思っているとしっぺ返しをくらう。絵の具まみれの俳優がこちらを抱きしめてくるなど、普通の舞台ではつねに隠され続けてきた「汚れ」という身体性をもって攻撃してくる。

②総勢51人の制服男女が、劇場をすべて侵食して暴れまくるバナナ学園。狂乱のなかで観客/俳優の区別を越えようとするその舞台構成は、ある意味では古いともいえるが、二階堂さんの巧みな演出によって、現代性を手に入れている。

③しかし、観客の特権が失われるということは、俳優もまた偶然性に脅かされる存在に落ちるということだ。しかし、バナナ学園の俳優は完璧なまでに統制されている。一見カオスにみえる舞台は、実は一挙手一投足まで徹底的に指導されている。ここに、客からの反撃がもし加わったなら、どうなるだろう?

④観客が少しでも「意図された偶然性」から逸脱した動きを見せれば、バナナ学園の舞台はその隙のなさゆえに簡単に崩れてしまうのではないか。観客を極限まで舞台に巻き込む演出は、それに見合った「あそび」がないと本当はまずい。今はその斬新さで観客は息をのむばかりだが、後に挑戦してくる者が現れるだろう。

⑤逆にいえば(そしてこちらの方が問題なのだが)、有無を言わせぬほどに計画された観客との接触は、その自由な精神にあふれる舞台に反して、俳優と観客との間に極めて権威的な関係を作り上げてしまう。観客は道具を持たされるだけ、または水を吹きかけられるだけの存在でいいのか?それが越境か?

⑥観客にも反撃のチャンスを与えること。そしてその反撃を劇的に吸収できる想像力を持ち合わせていること。これが、俳優と観客の世界を越境するときのルール。観客に手を出しておいて、観客からの反応を待たない舞台は、自由の堕落した姿である。

⑦俳優に従属することへのささやかな反抗として、俳優から水を吹きかけられたあとに、ぼくの口からも水をピューッと出してやった。実は、「持ってて下さい!」と言われて預けられたペットボトルの水を、勝手に飲んで口に含んでいた。中途半端に劇に参加させられるのはごめんだ。

以上が去年バナナ学園の舞台を観たときの感想だが、先の問題から今読み返してみても同じように思う。対話のない舞台/客席の越境は暴力であり、本来、そういうものが渦巻く日常の関係性から人を解放させるのが“アングラ芝居”だと思うのだが、ただ権力構造を再確認するような舞台はすでに死んでいる。

舞台空間でさえも対話の機会を奪われてしまったら、人はどこで人と向かい合い、対話することができるのだろうか。自分がやる舞台でも教わったことは、劇の内容にかかわらず、ちゃんとそこに人間がいることを意識し、対話すること。意識が他者へ向いていない演技はすぐにそうだとわかってしまうから不思議なものだ。

アングラの越境は、失われたコミュニケーションの回路を開くこと。観客との接触や偶然性はすべてその地平へと向けられている。一方で対話なき越境はただの暴力だ。必然の下にコントロールされた俳優の身体は、出会いの契機を観客に与えることもなく、その傍若無人な振る舞いに反して、日常の延長を感じさせるだけである。