山陰礼讃②「引揚記念館」

201805/04

Day1

 

Day2 東舞鶴 → 引揚記念館

 

 

東舞鶴駅からバスで15分ほど山腹をのぼり、舞鶴湾を見晴るかす高地に「引揚記念館」はある。私の生年でもある昭和63年に市が設立したこの記念館は、まさしく絶好のロケーション。そして、きのう感じた“引揚者をあたたかく出迎えるような印象”をさっそく裏づけるような資料を見つけたので、控えたメモから引用したい。

 

『引揚手記 私の引き揚げ』より。

 

“舞鶴湾の小島の松の緑を見た時は、本当に日本へ帰ってきたのだなあと、上陸後も足が地につかず宙を舞うようであった。”

“舞鶴の松の緑に色映えて 海の青さに涙こぼるる”

“箱庭のような湾内の島々、緑の山野を仰ぎ見て感泣。生きて帰る事の出来た私達。旧海兵団跡の平桟橋に上陸、日本のふるさと祖国へ第一歩した時の感動、夢にまで見たダモイ。”

 

 

「ダモイ」とはロシア語で「帰還」を意味し、抑留者の多くは“トウキョウ ダモイ”の言葉にのせられ、収容所へ引かれた列車に詰めこまれた。彼らのシベリアでの手記を読んでいると、ダモイの噂にもう惑わされまいと平静を装いつつ、心の奥底で一縷の望みをかけて待っていたことがよくわかる。

 

だれも終戦後に捕虜でありつづけることなど、想像だにしなかっただろう。今なおオブラートに包まれているが、「終戦」ではなく「敗戦」という事実が、そこにはある。そのため、舞鶴港は戦後13年にわたり「引揚港」の役割を果たすことになった。最終船の入港は、1958年、日ソ共同宣言がなされた年である。

 

11年の抑留生活を強いられた者が、家族へ送った葉書を見つけた。

 

“一〇・四夜。今日十四時のニュースで鳩山首相が六日東京を出発する旨を聴きました。此の数日どれ程此のニュースをみんなが待つていたことか。勿論結果は予測出来ないが、これなくて近い帰国を見ることが全く不可能である以上、そのニュースが何より待たれたのです。”

 

10月19日、日本とソ連の国交は回復され、「舞鶴引揚援護局」は閉局した。

 

舞鶴に降りたった引揚者たちの心境は先にすこし示したが、手厚い歓迎を受けた彼らはそこで数日過ごしたあと、今度は「引揚列車」に乗りこんでそれぞれの故郷へと帰ってゆく。その時刻表も残されており、祖父の生地である長野までの乗り継ぎを調べてみた。

 

「14:00 東舞鶴、17:10 京都、22:04 名古屋、4:07 松本、小諸 7:16」

 

午後に出発して、翌日の朝に到着する遠路であった。約17時間、そこからまた支線で家路につく。なお、ロシアのナホトカから舞鶴までは3日ほど要したという。

 

 

祖父は腹だけが異様に膨れた状態で家に戻ってきたと聞いているが、栄養失調であったことは他の抑留者の記録からも間違いない。記念館には「抑留体験室」というものがあり、私もなかへ入ってみた。木製の二段ベットは労働を終えた身体を横たえるだけの「板」で、床についてみるとじつに固く、また窮屈であった。食糧は黒パン、争いが起きないように手製の秤が置かれている。丸太は運べないという重さではないが、心身ともに限界状況ではたいへんな持ち重りがしただろう。

 

ここで数年間過ごすことが、いかに人間の尊厳を奪い、語ることの無意味さを知らしめるか、想像に難くない。

 

それでも決して少なくないメモ帳、葉書、日誌が書き残され、現にユネスコ世界記憶遺産として眼前にある。私は、人間が水も食料も充分にないなかで、最後まで飽くなき「言葉」を求めることに、もっとも深い感動を覚えた。記念館の目玉でもある「白樺日誌」は、文字どおり紙の代わりに白樺の皮を使用した日記で、ペンは空き缶の先をとがらせ、インクは煤を水に溶かして、書き溜めていったものだそうだ。

 

そこに綴られているのは、日々の想いを和歌や俳句に託したものだった。そのときの心境をもっともよく書きあらわす手段として、当時の人々が慣れ親しんでいた「5・7・5」を採ったことは、言葉ないしは文化の持つ重要な示唆を与えてくれるように思えてならない。

 

ほかにも、達筆にしたためられた郵便の数々を目にし、戦争を記録する史料館でありながらも、そこはさながら文学館のようだった。なぜひとは、自らの命をつなぐように、これほどまでに言葉を紡ぐのだろう。それが極限状態においてもなお可能だったことに、いやむしろ過酷な状況にあったからこそ求められたことに、私は「言葉」と「人間」の関係にかすかな希望を見いだすことができた。

 

それは語れなかった者を貶めることではまったくない。私もいま思えば、祖父に満蒙開拓のこと、“ラストエンペラー”溥儀のこと、ソ連との交戦のこと、シベリアの春のことなど、聞きたいことはたくさんある。でも、それでいいように感じた。口外せずとも、祖父の胸中には生き抜くための「言葉」があったはずで、その存在を今はかたく信じられる。