第45回 スパイクを捨てる四月の朝

201804/08

 

新年度になったので、靴を新調したり、整理したりしていたら、奥からこんなものが出てきた。陸上競技のスパイクだ。左がミズノで、右がアシックス。どちらも自分が中学生のころに履いていたもので、無論いまは使用していない。

 

 

わかる人がみれば説明など不要だが、どちらも短距離走のもの。ソールがけっこうな角度で立つように反っている。つまり、つま先部分にあたる母指球でトラックを蹴るようにできている。そのため踵には緩衝材もなにもなく、これで通常の走りをしたら体へのダメージは計り知れない。あくまで、一瞬の勝負のためだけに最適化され、持ちこたえられるように設計された靴なのだ。

 

…といった解説は、実はもう古いのかもしれない。というのも、「膝を高く上げ、つま先で土を蹴って前に進む」セオリーが、一概にそうとは言えなくなってきているからだ。十数年前、まさに自分が陸上に精を出していたときが、おそらく変わり目だったと記憶している。“ナンバ走り”という言葉を覚えている人はそう多くないと思うが、世界陸上で200メートル銅メダルをとった日本人といえば、あっと気づく方もいるだろう。末續慎吾選手の活躍と、あの独特の走り方を。

 

厳密には、同じ側の足と腕を同時に差し出すナンバ走法ではないのだが、上下へのぶれが少なく、すり足のごとく水平に移動する姿勢は、あの頃なにかと衝撃的だった。その動き可能にしているのは、例のつま先ではなく、足裏全体の着地であった。すなわち足の面でとらえ、重心を前に置きつづけて走っている。

 

ただでさえ感化されやすい年ごろだった僕は、銅メダルを噛む末續選手が強く脳裏に焼きつけられ、さっそくこれを実践しようとトラックに出た。ところが、当たり前だが、全然はやく走れない。あの走法を可能にする各部位の筋肉が圧倒的に不足していた。写真ではわかりにくいが、赤いミズノのシューズは右に比べてよりフラットで、“末續フィーバー”に浮かされて「アシックスは古い!」と言わんばかりに、買ってもらったものだった。

 

そんな思い出が、一気によみがえってくる。ただの2足のスパイクだが、靴をかたどったハードディスクのごとく、その時々の考え、気持ち、まわりの景色がありえないくらいの情報量で詰め込まれている。そして今、そこで呼び起こされるのは「過去」ではなく「過去に思っていた将来」なんだと、思い知った。

 

過去に思いをはせることは、ありえたはずの将来に想像をめぐらすことでもあり、この場合スパイクを目にして思うのは“懐かしい”気持ちではなく、ただぼーっと、ぼーっとしてしまうのである。こんな感じになったのは初めてだ。

 

これまでに何度も書き散らしてきたことだが、怪我をして陸上をやめた後は、その情熱を受験勉強に向けるようになって、無事大学に合格し、でも入学後にアパシーで苦労し、もがくなかで自分の道らしきものを見つけて、いろいろありながらも今にいたる。言葉でたどる陸上の思い出はこれまでずっと“懐かしい”ものであったが、古びたスパイクのつま先が向く将来を見つめてみたとき、「ああ、本当に走りが好きで、走りたかったんだな」と当時の視点にたって物事を感じられるようになった。

 

要らないものを捨てるつもりで引っ張り出したスパイク。もう使う機会はないのでやっぱり捨てる。営業にスパイクは必要ないし、仮に子どものことを想像するとしても、その時は、もっともっと良い靴があるはずだ。ただ“鎮魂”の意味を見いだして、スパイクを袋にいれよう。